11/22 「性癖大爆発♥光・闇の創作BLコンテスト」結果発表!
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2024/10/25 16:00
2024/11/22 16:00
あらすじ
リュウと健人は交際七年目になる恋人同士。大学卒業を機に同棲を始めた二人は幸せな日々を送っていたが、ある日リュウが交通事故に遭ってしまう。一命はとりとめたものの、事故以降の出来事を覚えられなくなってしまったリュウ。毎朝目覚める度に記憶がリセットされているリュウに事情を説明し、献身的に尽くす健人。一日で記憶が消えてしまっても、新しい思い出を作れなくても、二人の関係は変わらなかった。事故から何年経っても二人は愛し合っており、それは永遠に続くと思われた。しかし次第に健人の様子がおかしくなっていく。
※こちらの作品は性描写がございます※
夕方五時を知らせるチャイムの音。日暮れ時の活気づいた商店街。背中を押す生温かい春の風。健人はネギが飛び出したエコバッグを、俺は酒の缶が詰まったエコバッグを持って歩く。行き交う人々の声をBGMに他愛の無い話をしながら歩く。俺と健人が住むマンションに向かって歩く。控え目に言って、いや控え目に言わなくたって、幸せだった。
「やっぱいいな」
「何が?」
「帰る家が同じって」
とびっきりの笑顔を向ければ照れた健人が目を逸らす。来月から新社会人として世に出るというタイミングで同棲を始めてから一週間。毎日がとても楽しい。好きな人と一緒にいられる日々は毎秒余すことなく輝いている。こんな多幸感に包まれるなら「自立できてない学生の内は駄目だよ。せめて大学を卒業するまでは……」と渋る健人を無視してさっさと同棲を始めればよかった。
「毎日顔見ながらおはようとおやすみを言えるのも、一緒にいただきますとごちそうさまを言えるのも、すっげー幸せ!」
「……リュウ君の幸せって安いよね」
ぶっきら棒に言うと健人は下を向いた。俺より頭ひとつ分背が低い健人が俯くと、俺には表情が見えなくなってしまう。でもわざわざ覗いて見たりしない。見るまでもないんだ。七年も付き合っていれば健人が今何を考えどんな顔をしてるのか簡単に分かる。今の健人は恥ずかしさで顔を赤くしてる。俺の言葉に共感と喜びでいっぱいになっている。恥ずかしがり屋の健人は俺みたいに幸せだとか好きだとか愛してるとか滅多に言わないけど、言わないだけで心の中ではちゃんと思ってる。それが俺には分かるし、俺には伝わってる。俺と健人は相思相愛。俺達は世界が羨むほどの幸せなカップル。俺達の愛は誰にも負ける気がしない!
「早く帰ってチューしたいなあ」
「外でそういうこと言わないでよ」
「家だったらいいの?」
「っ」
エコバッグを持っていない手を握ってやれば慌てたように顔を上げて「バカ! ここ外だって!」と赤い顔をして怒る。怒った顔も可愛いなあって思いながら俺は繋いだ手をぶんぶんと振ってみせる。勿論手の繋ぎ方は互いの指を絡めた恋人繋ぎだ。
「引っ越してきたばっかなのに噂されるよ」
「男同士でデキてるって? いいじゃん、事実だし」
「変な目で見られたり色々言われるかもよ」
「べつにいいって。もし何か言われても、いつも通り俺が守ってやるから気にすんなよ」
「そういう問題じゃないよ……」
呆れるように言われたけどちょっと嬉しそう。いや大分嬉しそう。いや嬉しそうじゃなくて絶対嬉しいと思ってる。健人は諦めたように俺にされるがまま腕を振ってるけど、繋いだ手にはしっかりと力を入れている。離さないとばかりにぎゅっと握ってくる。可愛い。俺は嬉しくてニコニコ笑ってしまう。
「やっぱ今チューしてもいい?」
「殴られたいの?」
商店街を抜けた先の交差点。赤信号。周りには老若男女問わずそれなりの人。しゃがんでチューしたらバレないんじゃないかなあって思うけど、本当にチューしたら本気で殴られるんだろうなとも思う。まあいい、家に帰ったら周りを気にせずキスでもハグでもセックスでも何だってできる。何せあのマンションの一室は俺と健人しかいない二人きりの世界なのだから!
「リュウ君、だらしない顔してるよ」
「そりゃあ大好きな恋人と一緒にいたら、こうなるだろ」
「……僕はならないよ」
そんなことを言ってるけど俯く健人の耳は赤い。やっぱチューしちゃおうかな。でも人混みでチューはさすがにアウトだろうな。しばらく口を利いてもらえなくなる可能性があるし、せっかく俺のリクエストですき焼きになった夕飯が無言の鍋つつきタイムになるかもしれないし、ここでチューは賢明じゃない。あー、早く家に帰りたい! 玄関の扉を閉めた瞬間に壁ドンして口の中に舌を突っ込んで健人はネギが入ったエコバッグを落として吐息を漏らして俺も酒が入ったエコバッグを落として夢中でキスをして服の上から身体を撫でてそれだけじゃ足りなくて乱暴に服を脱がしてここ玄関って抵抗するような健人の声を無視して押し倒して膨らんだ乳首を摘まんで撫でて吸って…………。
ねえ、あれ、ヤバくない?
妄想に耽っていると声が聞こえた。それは健人の声じゃなくて俺の左隣で信号待ちをしていた女子中学生二人組の内の一人の声だった。ヤバいって何が? と脳内で勝手に会話に交ざるのと信号待ちをしていた人達がざわめいたのは同時。車のハンドルを切る音やブレーキを掛ける音が断続的に響く。遠くで急発進急停止を繰り返しながら走る車が見える。左右に揺れては止まり物凄いスピードで走り出す、予測不可能な動きをする車。後続車は停車して距離を取り、前にいた車は避難するように近くにあった銀行の駐車場に入り、対向車は徐行しながらすれ違った。あきらかにヤバい車だとみんな思っている。そんな車が交差点に向かって走ってきている。みんな夢中になって車に目を向ける。酔っ払いか居眠りか薬物中毒か分からないけど、危険極まりない運転をする車に誰もが目を離せないでいる。
逃げた方がよくない?
女子中学生の声が聞こえた瞬間、誰かの悲鳴が響いた。突如今までとは比べものにならないくらいの猛スピードで車が走り出した。走り出した、と認識した時には遅かった。赤信号を無視して交差点に飛び込んだ車は青信号で直進していた車と勢いよく衝突した。その衝撃で激しくスピンした車が信号待ちをしていた俺達に突っ込んできた。俺は繋いでいた手を離し、隣にいた健人の身体を交差点から遠ざけるように全力で押した。エコバッグを落とし尻餅をついた健人は目を見開いて俺を見た。沢山の悲鳴と何かがぶつかる鈍い音がした。身体が宙に浮き、酒の入ったエコバッグが俺の手から消えた。ビールが苦手な健人用のジュースみたいなチューハイと俺用のビールの缶が空へ飛ぶ。春にすき焼きは季節外れだと笑う健人の前で飲むはずだったビールが地面に叩きつけられる。俺も、あと少しで、叩きつけられる。いや違う、俺はきっともう、叩きつけられている
*
目が覚めた時、最初に見えるのが健人の寝顔だと最高。健人の後頭部でも最高。だから今日も、最高。俺は目の前にある小さな頭を十秒ほど眺めて幸せに浸ると、そのまま後ろから抱きしめた。健人は少し身動いだけど起きた様子はない。柔らかな髪に顔を埋めてぐりぐりと身体を押しつける。あたたかくて気持ちいい。それにいい匂い。健人はおひさまの匂いがする。以前それを伝えたら「シャンプーの匂いでしょ」と冷たく返された。俺は「絶対シャンプーじゃねえよ! たかがシャンプーにこんな癒しの匂いを出せるはずがねえ!」と力強く主張したけど「じゃあ柔軟剤かボディソープだね」と言われ全くもって相手にしてくれなかった。ふは。当時の健人と俺の温度差を思い出して笑ってしまう。
「……リュウ君?」
「あ、起きた? おはよー、健人」
「……ん。おはよ」
寝起きの健人の声は力が抜けていて可愛い。勿論寝起きじゃなくても可愛いんだけど、寝起き特有のくたっとした頭の悪そうな声は普段の真面目な健人からは想像できない声で、ギャップに殺される。可愛い。好き。可愛い。可愛い。好き。好き。大好き。朝から愛が溢れてやまない。
「……ねえ、リュウ君」
「うん?」
「……当たってるんだけど」
「当ててるんだよ」
朝だから、しょうがない。いや違うな。健人に抱きついてるから、しょうがない。俺の身体はいつだって健人を求めてる。
「生理現象って言い訳しないの、さすがリュウ君って感じだよなあ」
「俺は言い訳のしない男なんだよ」
そう言って俺は、くるりと寝返りを打った健人に向かって微笑んだ。
「……あれ?」
しかし健人を見た瞬間、俺は微笑んだまま固まった。健人だ。目の前にいるのは間違いなく健人だけど、俺の知ってる健人と少し違うような気がした。何度か大きく瞬きをして、目を擦って、再び健人を凝視する。凝視されている健人は俺から目を逸らさずじっとしていた。
「健人……なんか、カッコよくなった?」
「ぶっ」
吹き出すように笑う。なにそれ、寝起きの顔見てそれはないでしょ、てかカッコイイは初めて言われたかも。そう言って笑う表情も俺の知ってる健人とどこか違う。でも具体的に何がどう違うのかは分からなくて、健人であることは間違いないのに妙な違和感があって、混乱する。
「変なこと訊くけど、お前、健人だよな?」
「うん。そうだよ。リュウ君と付き合ってる健人だよ」
健人は目尻を下げた笑みを浮かべると身体を起こした。そこでまた「あれ?」と思う。初めて見る寝間着だけどいつ買ったんだろう? 昨日まで着てたスウェットはどうしたんだ? お揃いで買ったやつだけど実は好みじゃなかったのか? 疑問に思いながら俺も身体を起こす。ん? ベッドのシーツって紺色だったっけ? あそこに棚なんてあったか? いつか観葉植物を置きたいって言ってたけど実際に置いたんだっけ? 住み始めてからまだ一週間だけど、こんなに見慣れないものだろうか。
「リュウ君」
辺りを見回していると頬に手を添えられる。健人を見る。やっぱりちょっと違うと思う。真剣な眼差しを向ける健人は「落ち着いて聞いてほしいんだけど」と前置きをしてから言った。
「今は二〇二七年で、リュウ君が覚えてる日から三年経ってる」
「え?」
「僕もリュウ君も今年で二十六歳になるんだよ」
「は?」
なんだって? 二〇二七年? 二十六歳? 健人は何を言ってるんだ? 今は二〇二四年だし今年の誕生日で俺達は二十三歳になるはずだ。なるはず、じゃなくて、絶対そうなる。だって俺達はつい先日大学を卒業したばかりで、そして来月から社会人として新たな人生がスタートするんだから。
「昨日のことは覚えてる?」
「昨日? 昨日は…………朝からヤって、二度寝して、夕方に起きて、腹減ったから買い物に出て、夕飯はすき焼きがいいって、それでネギとか酒とか色々買って、それで、それで……」
交差点。車。悲鳴。衝突。一気に記憶が流れ込んでくる。健人の身体を押したこと。俺の身体が宙に浮いたこと。その先が思い出せない。あれからどうなった? 俺は、いや俺よりも健人は、健人は、どうなった?
「僕は無事。リュウ君が守ってくれたから、傷ひとつ無かったよ」
俺が訊く前に健人は答えた。まるで俺に訊かれるのが分かっていたような速さ。もしかして健人ってエスパー? なんて茶化す余裕は無い。健人の言葉に自然と強張っていた身体の力が抜ける。勿論これは安堵の脱力。無事。健人は無事だった。よかった。今すぐ抱きしめてこの喜びを伝えたい。今夜は健人の無事と無傷を祝って盛大なパーティーを開催したい。ふざけているように思えるが、俺は本気だ。
「健人、今日はお前の無事を祝っ」
「でもリュウ君はあんまり無事じゃなかった」
「え?」
「何ヶ所も骨折したし、一時は危険な状態だったし、長いこと入院もしてたし……」
「それは確かにあんま無事じゃねえな」
軽く答えると「全然無事じゃないよ!」と悲愴な顔で突っ込まれる。怒り三割悲しみ七割の表情も可愛い。あ、やっぱりカッコイイより可愛いの方がしっくりくるな。健人はどんな顔をしてたって可愛い。いつだって可愛い。今目の前にいる健人は俺の知ってる健人とは少し違うけど、でも俺がいつも可愛いと思っている健人であることには違いない。健人だ。昨日と変わらない健人がここにいる。
「……なに笑ってんの」
「え? あ、いやあ、相変わらず健人は可愛いなあって」
「今真剣な話してるんだけど」
「ごめんごめん。で、なんだっけ? 俺が無事じゃないって話だっけ?」
「自分のことなのに他人事すぎるでしょ」
はぁ。深い溜め息をつく。憂うような健人も可愛いと言ったら殴られるだろうから俺は口を閉じる。そして自分の手を見た。グー、チョキ、パー。じゃんけんをするように手を動かす。異常無し。問題なく動く。骨折したとか入院してたとか、なんだか夢みたいだ。
「身体の怪我は治ったけど、リュウ君の頭には障害が残ったんだ」
「頭?」
「事故以降の記憶を保持できなくなった」
「簡単に言うと?」
「一日で記憶がリセットされる」
「つまり今日の出来事は明日には忘れるってことか?」
「そう」
「なるほどな!」
「……そんな元気に返事するようなことじゃないよ」
また溜め息。でもちょっと慣れてる雰囲気がある。しょうがないなあって諦めたような顔で健人は俺を見ている。多分俺のこんな反応を見るのは初めてじゃないのだろう。でも、こういう反応をする以外にどんな反応をすればいいのか逆に俺は分からない。恐らく俺の頭には結構重い後遺症が残った。正直全然信じられない話だけど、健人がこんな冗談を言うはずがないので間違いなく本当の話だ。だから問答無用で信じるしかないし、信じた上で俺に何ができるってわけでもないし、へえそうなんだ! と受け入れるしかないだろう。寝たら忘れるってバカみたいだけど、マジで忘れてるから俺はこの部屋に違和感を覚えて健人のことも何か違うと思ったんだ。
「お揃いのスウェットはどうしたんだ?」
「ボロボロになったから新しくしたよ。ちなみにこれ、一緒に買いに行ったやつだからね」
言われて自分が着ている服を見る。余計な装飾や柄の無いグレーの寝間着。健人が着てるダークグレーの寝間着の色違い。触ってみれば生地は柔らかく肌に優しく馴染んでいて、質感にこだわる健人が選んだであろうことが分かった。まあデザインからして派手好きな俺とは違いシンプル至上主義な健人が選んだことは容易に想像つくけども。
「これ健人が選んだんだろ」
「え、うん、そうだけど……覚えてるの?」
「いいや。でもそれくらい覚えてなくても分かるっつーの」
得意げに言ってみたけど、いつものように「調子に乗らないでよ」と呆れてくれなかった。健人は困ったように眉を寄せて無理矢理笑った。悲しそうな笑みだった。もしかしたら俺が思ってる以上に俺の頭は重症なのかもしれない。
リビングには沢山の写真が飾ってあった。写真立てに入れられた物もあれば冷蔵庫や壁に直に貼り付けた物、そこかしこに写真がある。それも全部健人と俺が二人で写っている写真だ。新婚でもこんな浮かれたことやらねーよ、と思ったけど言わなかった。だってきっとこんな浮かれたことをやり出したのは俺だ。写真を撮られるのが苦手な健人が率先して飾るとは思えない。翌日には全てを忘れる俺が、その日健人と一緒にいた証を残すためにやり始めたんだ。
片手に収まる小さいサイズの写真の余白には日付が書かれている。俺の字の時もあれば健人の字の時もあるし、数字のシールを貼ってる時もあるし、日付を書いた紙を二人で持って撮った写真もある。どの日も楽しそうだった。健人は恥ずかしそうな顔をしてるものが多いけど、俺は全部笑ってる。我ながらスゲー良い笑顔。俺はその日あったことも写真を撮ったことも笑ったことも何も覚えてないが、絶対楽しかった、ということだけは分かる。
「リュウ君、朝ご飯できたよ」
壁に貼られた写真を夢中になって見ていると健人に声をかけられる。振り向けばソファの前のテーブルに美味そうな飯が並んでいた。表面に程よい焦げ目のついたサンドイッチ。濃厚な色をしたコーンスープ。ブルーベリージャムのかかったヨーグルト。マグカップにはホットコーヒー。かつてないほどにオシャレな朝食だ。
「朝から手が込んでるな」
「そんなことないよ。サンドイッチはホットサンドメーカー使えばすぐできるし、スープは牛乳で粉末溶かしただけだし、ヨーグルトは皿に盛って終了。コーヒーなんて機械のスイッチ押すだけだからね」
どちらかと言えば簡単ズボラ飯でしょ。健人は当然のように言ってのけたけど、俺からすれば微塵も当然じゃない。俺の知ってる健人は袋ごと食パンを出してたし、粉末を溶かすのにケトルでお湯を沸かすのも面倒くさがってたし、ヨーグルトはパックにそのままスプーンを突っ込んで食うスタイルだった。コーヒーは俺が実家から持ってきたコーヒーメーカーを未だに愛用してるみたいだけど、それでも「機械を洗うの怠いよね」なんて言ってた奴だ。物凄い変わり様だ。
「ホットサンドメーカー買ったんだ?」
「うん。去年の誕生日にリュウ君が……いや、うん、そう、買った」
「俺が誕生日にプレゼントしたんだ?」
「……うん」
気まずげな頷きに俺は軽く笑ってみせる。それからコーヒーを一口飲んでサンドイッチにかぶりつく。中身はハムとチーズ。定番の食材がサクサクの生地に包まれてるだけでこんなに美味しくなるのか。これは袋の中で湿気り始めたヘロヘロのパンには出せない味だ。パンを焼くって偉大なことだったんだなあ。うめぇ。素直に感想を漏らせば健人は嬉しそうに微笑んだ。
「俺がホットサンドメーカーをプレゼントした意味が分かった」
「え?」
「健人に美味いモンを食わせたかったんだな」
「…………」
「去年の俺グッジョブ。永久に褒め称えたい。今年もその調子でよろしく頼む」
ニッと笑って食べ進めていく。牛乳で溶かしたスープはお湯で溶かすよりずっと濃厚で、皿に盛られてるヨーグルトもパックから直に食べるより遙かに美味い。最高だ。何よりも目の前に健人がいるってことが最高。好きな人と一緒に飯を食えるって、一緒に過ごせるって、最高。
「なんかさあ、リュウ君と話してると気が抜けるよね」
「そうか?」
「今の状況に順応するの早すぎじゃない? 普通取り乱すでしょ。記憶障害なんて信じらんねえ、三年後なんて嘘つくんじゃねえよ、って。もっと色々疑ったりしないの?」
「しねえよ。だって健人は俺に嘘つかねえじゃん」
昔からそうだ。健人は正直者だから嘘をつけない。仮に言葉で嘘をついても態度や表情は嘘をつけない。嬉しい時は目を輝かせるし、怒った時は口を尖らせるし、悲しい時はすぐ泣きそうになるし、恥ずかしい時は頬を染めてそっぽを向く。感情に素直な奴なのだ。
「まあ疑ったところで何が変わるってわけでもねえし、月日が経ってるのはあきらかだし」
部屋中にある写真。一枚も俺の記憶に無い写真。俺にとっては未来の日付が書かれた写真。目の前には少し大人になった健人。信じられないような話だけど信じるしかない。
「そんなことより俺は、どんな状況になってても変わらず健人がそばにいるって事実が嬉しいし、なんかもうそれだけで十分」
真っ直ぐ健人を見る。健人はマグカップを片手に持ちながら潤んだ瞳で俺を見ていた。俺の言葉は嬉しいけど素直に喜べなくて、悲しくなっている。健人が悲しくなるのは当然だ。明日の俺は今のやり取りを忘れるんだから。どんなに愛を伝えても俺は伝えたことを忘れるんだ。健人にとっては言い逃げされてるようなものだ。でもだからって、言わない選択肢は無い。
「つーわけで健人がいるから今日も俺は幸せ! 記憶障害とかどうでもいい! 何も問題無し!」
そう、何の問題も無いんだ。三年経っていようが五年経っていようが、俺の頭が壊れていようがなかろうが、昨日のことを覚えていてもいなくても、関係無い。健人がいればそれだけでいいんだ。
「……リュウ君って本当に僕のこと好きだよね」
「おう! 昨日も今日も明日もずっと好きだぜ!」
健人は? なんて訊くのは野暮だろう。三年経っても恥ずかしがり屋は卒業していないみたいだ。健人は頬を染めて俯いた。
*
「リュウ君、起きて」
身体が揺れている。揺らされている。誰かの手によって俺は揺さぶられている。しかしそんなことはどうでもいい。一瞬目を開ける。眩しい。瞬時に閉じる。揺さぶられる。抵抗するように身を捩る。まだ俺は目を開けたくない。いやだ。ねむい。ねたい。そうだ、俺は今まで寝てたんだ。徐々に頭が覚醒していく。覚醒したくないと抗えば抗うほど意識が定まってくる。声が聞き取れるようになる。
「朝だよ、早く起きて、リュウ君」
「……んだよ、もっと寝かせろよ。休みなんだから」
「寝かせてあげたいのはやまやまだし、確かにリュウ君は休みなんだけど、でも僕は休みじゃないから一回起きてくれないかな」
「……はあ? 何言って……」
渋々瞼を持ち上げれば俺を見下ろす健人と目が合った。ワックスで整えられた髪に身丈にピッタリのスーツを纏っている健人。楽だからという理由でオーバーサイズの服を着てくせっ毛の髪を四方八方にふわふわ揺らしてる普段の健人も可愛いけど、よそ行きのカチッとした格好をしてる健人も可愛い。それもスーツ姿なんて滅多に見れないから正直ちょっとかなり滅茶苦茶テンション上がるかも…………って、スーツ?
「なんでスーツ着てんの」
就活はとっくに終わったはずだ。卒業式だってこの前終わった。もしかして今日は新人研修でもあるのか。でもそんな予定があるなんて聞いてない。会社から急に連絡があったとか? 契約期間前から呼び出されるってブラックなんじゃねえの? 大丈夫か? それにしてもスーツめっちゃ似合うな。就活してた時は着させられてる感があったけど今日の健人は違う。着こなしてる、そんな感じ。
「リュウ君、時間が無いから手短に話すんだけど」
健人は俺の質問には答えず、ちらりと腕時計で時間を確認すると早口で言った。
「リュウ君は事故に遭ってから物を覚えることができなくなったの」
「え?」
「だからリュウ君が覚えてる昨日の出来事は、実際にはずっと昔のことなのね」
「は?」
「でも大丈夫。リュウ君はあれから変わらず今日まで元気に生きてきたから」
「お、おう?」
「ちなみに事故に関して僕は無事だったから安心してね! リュウ君が守ってくれたおかげで無傷だったから!」
「そ、そうか?」
「僕は仕事に行くけどリュウ君は家で自由に過ごしてていいから。ご飯は冷蔵庫に昨日の残りが入ってるし、机の上にお金も置いといたから好きに使ってね。困ったことがあったら電話して。じゃあね。いってきます!」
「え、あ、いってら……しゃい?」
俺の言葉を最後まで聞くことなく健人は部屋を出て行った。随分慌てていた。やっぱり健人が内定を貰った会社はブラック企業だ。学生の内から働かされるなんて。いや、正確には学生じゃないけど。だからって社会人でもないんだけど。
どこにも属していない三月の終わりは不思議な気分になる。今まで乗っていた列車から降りて次に乗る列車を待っている時みたいな気分だ。戻れなければ進めもしない。ホームでふらふら彷徨ってるだけ。ある意味自由で気楽なんだけど、何者にもなれない心許なさを感じる。どこかしらに所属していて自分のいるべき場所があるのは意外と心の支えになっているんだ、ということを中学高校を卒業した時にも思った気がする。働きたくはないけれど、早く社会人としての自分を確立したいとは思う。経済的な面でも健人との関係も、社会人というステージ上で安定したい。次に乗り込む列車は学生の時とは比べものにならないくらい長い。その長い列車で上手くやっていく術を早く身につけたい。
「……まあ、今のちゃらんぽらんな生活も悪くないけどな……」
健人が使ってる柔らかい枕を抱き寄せて顔を埋める。おひさまの匂いがする。大好きな健人の匂いがする。学校のことも仕事のことも何も考える必要がない今だからこそ存分に噛み締められる幸せも、ある。今は健人のことだけ考えて毎日を過ごせる。同じ家で飯食って寝て一日中一緒にいられて邪魔する奴は誰もいなくて嫌なこともなくて、ただただ健人と笑ってられる。列車に乗っていないホームの上だからできることだ。こんな幸せを味わえることって滅多にない。どこにも属してないから二人だけの時間を自由気ままに過ごせるんだ。「今日は何をしようか」「夕飯は何がいいかな」そんな老夫婦みたいな会話をして日々を………。
バチッ、と効果音が聞こえそうなくらい大きく目を開ける。枕を抱えたまま三回、これまた大きく瞬きをする。目が覚めた。完全に頭が覚醒した。あれ? 呟きながら身体を起こす。すき焼き。考えていることが勝手に口から零れる。「夕飯は何がいいかなあ」「すき焼きにしようぜ」「えー、春にすき焼きって季節外れじゃない?」会話が蘇る。あれはいつの話だ。昨日、いや、今日、さっき、三十分くらい前の、話。それなのになんで俺は寝てるんだ。なんで今起きたんだ。あれは夢か? これが夢か? どれが現実だ?
「なんだこれ……」
さっきまでの記憶と今が繋がらない。飲み過ぎて記憶が無くなった時とは違う。昨日あの後どうしたんだっけと二日酔いの頭で考える時とは別の感覚がする。何かがおかしい。どうして俺がここにいるのか分からない。だってさっきまで俺は健人と外に出ていて、すき焼きの材料を買って、賑やかな商店街を抜けて、交差点で……。
動悸がする。酸素が薄いのか吸っても吸っても肺が満たされない。苦しい。怖い。何が怖いのか分からないけどスゲー怖い。どうしよう。パニクるつもりはないが身体が勝手にパニクってる。頭が焦ってる。冷静に今の状況を見極めたい俺と今の状況が理解できず暴れ出したい俺が戦ってる。枕元に置いてある携帯に手を伸ばす。とにかく健人だ。健人に連絡を取らないと。この世界はおかしくなってる。多分ヤバいことになってる。てかお前大丈夫かよ。さっきお前は、俺は、俺達は、車に……。
「今日は取り乱す日だったかあ」
繋がった電話の先、慌てた俺の声を聞くなり健人は言った。落ち着いた声だった。焦ってる俺がバカみたいに思えるほど健人は普段通りだった。その上何故か健人は俺の様子を把握していた。まだろくに話してないのに俺の恐怖も混乱も全て見透かしていた。
「リュウ君、落ち着いて。焦るようなことは何もないから。大丈夫だから。僕が出掛ける前に言ったことを思い出して……って、寝ぼけてたから分かんないか。えっと、交差点の事故は覚えてるよね? あれ以来リュウ君の記憶は一日しか持たなくなったの。だからリュウ君は朝起きると事故の日に記憶が戻っちゃうんだけど、実際あの事故があったのは約三年前のことなのね。驚くだろうけど、でも、大丈夫。記憶が無くてもリュウ君はこれまで毎日笑って生きてきたから。リビングに行けばそれが分かると思う。また何かあったら連絡して。仕事中だと電話に出れないかもしれないからメッセでも入れといて。今日はなるべく早く帰るようにするね。じゃあね」
健人の声の後ろでは電車の走る音が聞こえた。ホームのアナウンスが聞こえた。人々のざわめきが聞こえた。これから健人は会社に行くために電車に乗るのだろう。健人のように冷静になって状況を理解しようとしたけど全然理解できない。三年前ってなんだ。俺はさっきまで交差点にいたんだ。確かにいたんだ。仕事だってしてないはずだ。健人も俺もまだ社会人じゃないんだ。だけど健人が俺に嘘をつくはずがない。朝起きると事故の日に記憶が戻る。もしかしたらその通りなのかもしれない。いや、絶対その通りなんだ。だから俺は今こんなことになっている。でも、大丈夫。と、健人は言った。そうだ。健人が言うなら絶対大丈夫だ。俺はベッドから下りると寝室を出た。
俺が毎日笑って生きてきたことがリビングに行けば分かるらしい。確かに、リビングに行ってすぐに分かった。やっぱり健人の言うことに嘘はない。リビングには沢山の写真があった。撮った記憶の無い写真しかなかったけど、そこに写ってる俺は笑ってた。あまりにも楽しそうな表情に見てるこっちも笑ってしまう。写真の余白部分には未来の日付が書かれてる。未来だと思うだけで実際には過去なのだろう。信じられないけど、でも俺が生きてきた証拠がそこにある。健人と生きてきた痕跡が残ってる。そして今もまだ俺と健人は一緒にいる。一緒にこの家に住んでいる。一緒に生きている。じゃあ、いいじゃん、それでいいじゃん、焦ることも怖がることも何もねえじゃん。そう思った瞬間、パニクってた自分が恥ずかしく思えるくらいには落ち着いた。咄嗟に健人に連絡をした自分に焦りすぎだろって笑う余裕ができた。
目の前に飾ってある2026年9月5日と書かれた写真を見る。美味そうなサンドイッチを持った健人と俺が写ってる。去年の健人の誕生日も俺達は一緒にいたんだ。一緒に誕生日を祝ったんだ。大丈夫って健人が言う意味が分かった。確かにこれは大丈夫だ。俺も健人も幸せそうに笑ってる。
冷蔵庫に入っていたチャーハンと酢豚をレンジで温めてソファに座った。昨日の夕飯は中華だったのだろう。どっちが作ったのかなあ、健人かなあ、俺かなあ、それとも二人で作ったのかなあ。考えながら携帯の写真フォルダを開いてみる。想像はできてたけど案の定俺の知らない健人の写真が大量に並んでいた。昔からカメラを構えると逃げるので大半が隠し撮りだろう。カメラに視線を合わせている写真は少ない。公園を歩いてる後ろ姿。水族館で魚を見てる姿。ソファの上で読書してる姿。飯中のフォーク片手に携帯をいじってる姿。完全に油断してた風呂上がりの半裸姿。気持ちよさそうな寝顔。拗ねてる顔。照れてる顔。嬉しそうな顔。楽しそうな顔。笑ってる顔。よく笑うようになったなあ、と改めて思う。
健人と仲良くなったのは小学生の時だ。同じクラスになって俺が声をかけたのが始まり。ちなみに初めて健人にかけた声は「大丈夫?」だった。その時に向けられた健人の瞳を俺は一生忘れないだろう。
健人は身体が小さくていつもオドオドしてて見るからに弱っちい典型的ないじめられっ子だった。クラスのいじめっ子軍団に目を付けられており、鬼ごっこの鬼を延々とやらされたり教室で育ててた亀の水槽の掃除を押しつけられたり殴るだの殺すだの脅されてテストを白紙で提出するよう強制させられたり、日々くだらないいじめを受けていた。俺はそんな健人を可哀想だと思った。だから助けた。みんな自分がいじめの標的になるのが嫌で無視してたけど、毎度小さな呻き声を上げながらボロボロ涙を零してる健人があまりにも不憫に思えて俺は手を差し伸べた。健人をいじめてた奴らを注意して健人に大丈夫かと問えば、健人は神様でも見るような目で俺を見つめた。そして「ヒーローって本当にいるんだ……」と驚いたように言って感動と喜びにわんわん泣いた。それから当然のように健人は俺に懐いた。それを満更でもないと思う俺がいた。だってヒーローだとかカッコイイだとか言って俺に近寄ってくる健人はとんでもなく可愛かったから。俺しかいないという目で見つめられ、助けを求められ、頼られる。それがとても嬉しくて誇らしくて「俺が一生お前を守る!」なんてプロポーズをするみたいに宣言した。それは九歳の時だった。
「健人が作ったやつだな」
味の濃いチャーハンを食べながら笑う。あまり料理が得意じゃない健人は丁度良い味付けの飯を作れない。焼くだけとか切って挟むだけ系の料理はできるが自分で味付けをするような料理はてんで駄目だ。大体これくらいでしょ、って小さじ百分の一くらいしか塩を入れなかったり甘党でも引くくらい大量の砂糖を入れたりして毎回濃いか薄いかの両極端の味付けになる。食べられないわけじゃないけどスゲー美味いと褒めることはできない料理。でも俺は健人の飯が食えるだけでも十分嬉しいので毎回喜んで食べる。こんな俺にバカじゃないのって呆れながらも嬉しそうに顔を綻ばせる健人を見るのが楽しみの一つでもあるし、健人も俺がそうやって楽しんでいることを理解していて、笑う。もうただのバカップルでしかない。自覚してるし、自覚できる今を幸せだと思う。
俺が健人の拠り所とも言える存在になってから俺達の仲は急速に近付いた。今まではいじめの被害者と傍観者の立場で交流は皆無だったけど、話してみると健人は普通に面白くて楽しい奴だった。内気だと思ってたのも間違い。人見知りなだけで実は物怖じしないタフさがあったし性格だって思ったよりもずっと我が強いタイプだった。いや、そういう強い人間になったのは俺がいたからだろう。最初の頃は俺相手でも挙動不審だった。ありがとうよりもごめんばかり言ってたし、何をやるにも自信が無さそうだった。俺が変えたんだと思う。いじめられてる健人に「お前は悪くない」と言い続けて、僕の意見なんか聞かなくていいと他人を優先させる度に「俺はお前がどう思ってるかを知りたいんだ」と健人の心に踏み込み続けて、僕なんかこの世界にいなくても何も変わらないと言えば本気で怒り「お前がいるから俺は今スゲー楽しいんだ。健人のおかげで頑張れるんだ」って自己肯定感を高めさせて、健人という人間がこの世界に存在していることの大事さを教えてきた。そうしたら今の強く逞しい、楽しい時や嬉しい時は素直に笑える健人が出来上がった。と、俺は自惚れている。
いじめの被害者と傍観者というただのクラスメートから友達に変わるのも、友達から親友に昇格するのも、あっという間だった。それにごく当たり前のように親友としての好きが恋愛的な意味の好きにもなった。健人みたいな可愛い奴に「この世界で僕のことを分かってくれるのはリュウ君だけだよ」なんて言われて好きにならない方が無理な話だ。それに健人も、毎日いじめられてて友達もろくにできない自分を守ってくれる唯一の存在である俺を好きにならないはずがない。健人から向けられる視線や言葉や態度から俺が好きだという気持ちは痛いくらい伝わってきたし、逆に健人にも俺の好きは伝わっていただろう。つまり俺達が両思いであることは互いに分かっていたことだった。それでも思いを伝えるのは緊張した。
中三の卒業を間近に控えていたある日、学校の裏庭で健人に告白した。両思いだと分かっていても告白の定番スポットである裏庭に呼び出す時は声が震えたし、裏庭に向かう足取りはロボットみたいにぎこちなかったし、いざ正面から「好きだ。俺と付き合ってほしい」と伝えた時は心臓が壊れそうなほどドキドキした。健人の反応を見るのも怖かった。告白が成功するのはほぼ確定してるのに、いつ床が抜けて首に掛けられた縄に吊るされるのか分からないような、死刑囚さながらの恐怖感があった。だから健人が頷いてくれた時は本当に嬉しくて学校であることも忘れて抱きしめた。ちゃんと人の目が無いことを確認した上での行動だったけど普通に怒られたし割と本気で殴られた。「誰かに見られたらどうするの! いじめが悪化したらリュウ君の所為だからね!」嬉しさと恥ずかしさで頬を染めがら健人は言った。すかさず俺は答えた。「健人を苦しめる奴は俺が消してやる! 俺が一生お前を守るから大丈夫だ!」と。十五歳にして二度目のプロポーズである。
そのプロポーズを俺は守り続けている、と思う。七年経った今でも一緒にいるのが何よりの証拠である。
「……七年じゃなくて十年か」
携帯に表示されている日付を見る。未来の数字。今は三年後。つまり十年。付き合って十年になるんだ。その内の三年は覚えてないけど、でも大丈夫だ。俺達は変わらず大丈夫だ。目の前にある料理が、部屋にある写真が、それを物語っている。
*
「大丈夫?」
トイレからリビングに戻れば心配そうに尋ねられた。大丈夫じゃない。正直に言うか悩んで妙な間が空けば、健人は溜め息をついた。
「ベッド行く?」
「……行かない」
「ご飯食べる?」
「……食べない」
じゃあどうするの。視線で訴えられて、俺はソファに座っている健人の隣に腰を下ろした。ここにいる。まだここにいたい。という意思表示である。
体調が悪かった。朝飯を食って仕事に行く健人を見送るまでは大丈夫だったのに、それから徐々に具合が悪くなった。食欲は無いがそれでも健人が作り置きしてくれてた昼飯を食ったら、とうとう吐いた。胃液まで吐くのは生まれて初めてのことだった。胃と腸がキリキリと痛み脂汗が大量に出た。気持ち悪くて仕方なかった。健人の作った飯を吐くなんてと罪悪感に見舞われながら昼間はベッドに臥せていた。まあ寝れば治るだろうという希望を持って迎えた夜。健人が仕事から帰ってきても調子はイマイチで、だけど少しは良くなった気がしたので俺のために作ってくれたお粥を食った。そしたらまた吐いた。卵粥が全て便器にぶちまけられた。そして今に至る。
「横になった方が楽じゃないの?」
「なっていいのか?」
「べつに好きにすれば……って、ここで横になるの?」
「うん」
健人の膝に頭を乗せる。男の固い膝の上は居心地が良いとは言えないけど、健人の膝なら何だっていい。下から覗くように健人を見れば「ご飯食べにくいんだけど」と困り顔で言われた。それでも健人は俺を退かしたりせず、なるべく膝を動かさないようにご飯を食べる。仕事で疲れてるのに飯を作って俺のわがままも聞いてくれる。優しい奴だ。俺の恋人は世界一優しい。優しい恋人がいる俺は世界一幸せ。目を閉じて幸せに浸る。まあ目を閉じたのは身体がしんどいからなんだけど。
味噌汁を啜る音ご飯を咀嚼する音テーブルに食器を置く音が小気味よく耳に響いてくる。健人が生命を維持するために体内に食物を取り入れてると思うと感動と喜びで胸がいっぱいになる。それを正直に伝えたら百パーセント気持ち悪がられるから言わないけど。健人の血となり肉となるご飯に感謝するくらいには、健人に末永く元気でいてもらいたい。長生きしてほしい。できれば俺の隣で。という俺の大きな愛すなわちビッグラブを伝えても冷ややかな目で見られること間違いなしだから言わないけど。
「リュウ君、寝るならベッド行きなよ」
「……やだ」
目を開ける。俺を見下ろす健人と目が合う。心配と呆れの眼差し。シャッターチャンス。しかし携帯を構える元気は無いので今の健人の表情を目に焼き付ける。俺の脳内写真フォルダーに保存。明日には空っぽになるのが非常に残念。健人の右手が俺の髪をくしゃりと撫でる。気持ちいい。このまま永遠に撫でられたい。生まれ変わったら猫でもいいな。健人に飼われる猫限定だけど。
「なんで今日はこんなに甘えたなの?」
右手は俺の頭に置いたまま左手でビールの缶を掴む。そこで健人は二秒くらい動きを止めたけど、俺の返事が無いと分かると缶を傾けた。上下する喉仏を眺める。ビール飲めるようになったんだな。昨日の俺は甘えたじゃなかったのか。昨日の俺はどんな俺だった? 毎日ビール飲んでんの? 言いたいことはいっぱいある気がするけど口が動かない。缶を置いた健人はテーブルの上にあった携帯をいじり出す。食べてる最中に携帯をいじるなんて行儀が悪いぞ。今度こそ言ってやろうと気合いを入れて息を吸った。
「健人、ご飯中に」
「あ、待ってごめん、電話だ」
「……いいよ、ここで出て」
「仕事の話だから」
「べつに気にしねえよ」
そう言ったのに健人は慎重に俺の頭を退かすとリビングを出て行ってしまった。えー、なんでだよ、ここで電話出ればいいじゃねーかよ、わざわざ俺から離れなくたっていいだろ! と脳内の元気な俺が訴えているが肉体が不調すぎて何も言えない。健人の温もりが残ったソファでぼーっと横になることしかできない。悔しい。いや悲しい。いや寂しい。遠くで微かに健人の声が聞こえる。仕事と言いつつも随分と楽しそうな声で腹が立つ。早く戻って来いよ。もっかい膝枕して頭撫でろよ。じゃないとここで寝そうだ。寝たくないのに寝てしまいそうだ。そしてこのまま今日が終わりそうだ。そんなの嫌なのに。
「リュウ君」
はっとして目を開ける。ソファの上。携帯を持った健人が俺を見下ろしてる。電話、終わったんだ。ということに気付けるということはまだ俺の頭はリセットされていないということだ。でも眠気が酷くて思考がぐちゃぐちゃになってる。違うな。具合が悪くて意識が朧気なんだ。
「いい加減ベッド行こう」
「……じゃあその前に写真撮りたい」
「具合悪いんだからやめておこうよ」
「やだ」
「リュウ君」
「今日あんまり一緒にいられなくて全然話せてねえし、一緒に笑ってねえじゃん」
「……大丈夫だよ。明日は一緒にいられるから」
「明日は仕事休みなのか? 一日中家にいんの?」
「……もう、早く行くよ」
渋る俺に痺れを切らしたのだろう。明確な返事もせずに健人は俺の腕を掴んだ。そして有無を言わせず身体を起こされると寝室まで引っ張られる。決して強い力じゃないけど今の俺には抵抗する体力が残っておらず、されるがままに歩くしかなかった。
寝室の扉を開けると梅雨の時期特有のむわっとした生温かい空気が漂ってきた。閉め切ってる部屋は暑いなあ、と愚痴を漏らす暇すら与えられずベッドに寝かせられる。次いで容赦なくタオルケットを掛けられる。扱いが雑! と主張したいのに口を動かすのが億劫で何も言えない。エアコンの起動音が聞こえる。健人が文句も言わずにエアコンをつけたことに驚く。去年健人の家に遊びに行った時は「六月なのにエアコンをつけるのは屈辱! せめて七月まで我慢したい!」と言っていたのに。でも俺が思う去年は四年前のことで、あれから四年後の今は六月にエアコンを使うのは普通のことなのかもしれない。きっとこれが今の時代の当たり前のことなのだ。と、今の時世を理解してきたところで今日が終わってしまう。ろくに健人と話せずに終わってしまう。何も満足できずに終わってしまう。今日が終わったら俺は全部忘れてしまうのに。今日という日を堪能できるのは今日の俺しかいないのに。
「じゃあリュウ君、おやすみ」
「……健人は寝ねえの?」
寝室を出て行こうとする健人に訊いた。健人は振り返ったけど、寝室は暗いし廊下の明かりが逆光になって表情は見えなかった。
「寝ないよ。ご飯の途中だし、お風呂にも入ってない」
「……俺も飯食えてないし風呂も入ってない」
「今ご飯食べたら吐くでしょ? 外に出てないんだからお風呂も明日で平気だよ」
面倒くさがってる。声から苛立ちが伝わってくる。そりゃそうだ、仕事で疲れてるのに俺みたいなわがまま野郎の相手をするのは普通に面倒だしムカつくだろう。まあ俺は相手が健人なら面倒に思ったりしないけど……ってのは仕事をしてないから言えるのだろう。俺は社会人として働いた経験が無いから健人の疲労を理解することができない。理解できないけど、これ以上わがままを言うべきじゃないことは分かる。明日は健人と一緒にいられるみたいだし、今日は我慢するべきだ。そうだよ、明日は一緒にいられるんだよ、よかったな、俺。って言い聞かせてみるけどなかなか納得できない。だって明日の俺は今日の俺と違うから。
「健人」
「…………」
「俺すぐ寝るから、それまでここにいて」
溜め息が聞こえる。あー絶対機嫌悪い。ごめん超ごめんマジで申し訳ない。でも健人にいてほしいんだ。この気持ちが迷惑なのは分かるけど、どうしても譲れないんだ。俺は今日をこのまま終わらせたくないんだ。
「……分かった。お願いだから早く寝てね」
「うん」
もう一度溜め息をつくと健人は寝室に戻ってきた。そして俺に背を向けた状態でベッドに腰を下ろす。添い寝してくれるのを期待したけど、せめて俺の方に身体を向けて見下ろすくらいはしてほしかったけど、健人はそれ以上動かなかった。仕方ないので俺は満足してることにした。健人の背中を見れるだけでも幸せだ。今日が終わる瞬間まで一緒にいられるなんて最高だ。そう自分に言い聞かせながら健人の投げ出されている手にそっと触れてみる。ピクリと揺れたものの健人は振り返ったり手を払ったり握ったりしなかった。こりゃあ相当怒ってるな。でもなんでこんなに怒ってるんだろう。体調不良でゲロっただけじゃん。作ってくれた飯を吐いたのは悪かったけど、それでも一応食ったじゃん。頑張って食ってたじゃん。褒めてくれてもよくね?
「健人。ひとつ訊いていい?」
指先で健人の手をなぞる。俺の身体が熱いのか、健人の手がいつもより冷たく感じた。だけど妙にぬるい部屋に健人の冷たい手は気持ちよくて、ずっと触れていたいと思った。冷たくなくても触れていたいと思った。健人も同じように思ってくれたらいいのにと思った。
「今日お前が作ってくれた飯なんだけどさ」
「…………」
「なんで?」
どう言葉にすればいいのか分からなくて「なんで」という微塵も具体性の無い問いをしてしまった。これじゃあ俺が何を訊きたがっているのか健人は分からないだろう、と思ったけど唐突に健人の手が逃げた。俺が触れていた手が俺の言葉を聞いてあからさまに反応した。きっと健人は俺の訊きたいことが分かったんだ。分かった上で逃げたんだ。即ち今日俺が飯を食いながら「あれ?」と思ったことは俺の勘違いじゃなかったということ。健人には自覚があったということ。健人は敢えてやっていたということ。
今日作ってくれた健人の飯はどれもおかしかった。サンドイッチの中から奇妙な匂いがした。コーヒーを飲むと舌にザラザラした何かが残った。ジャガイモの炒め物が変な色になっていた。おにぎりの海苔がぬるぬると粘ついていた。卵粥は洗剤を溶かしたような味がした。料理人が絶賛するレベルの飯を作れるわけじゃないけど、毎度味付けが濃いか薄いかの両極端で決して料理上手とは言えないけど、それでもまあ普通に食えるレベルの飯を作れる健人がここまでおかしな料理を作るのには何か理由があるはずだ。俺の体調を悪くさせる飯を作りたい、俺にゲロを吐かせたいと思えるようなことが、あるはずだ。
「俺、何かした?」
「…………」
「俺バカだし頭もこんなんだから自覚ねえけど、健人を怒らせるようなことをしたのか?」
「…………」
「それとも今日の俺じゃなくて昨日の俺が何かした?」
「…………」
答えない。逃げた手は膝の上で丸まってる。硬直した背中。健人が緊張してるのが分かる。どうすればいいんだろう。答えてくれないと俺は分からないままだ。分からないまま、今日が終わってしまう。全部忘れてしまう。
「リュウ君」
「ん?」
「…………早く寝なよ」
寝るまでここにいてくれる約束だったのに健人は立ち上がる。振り返りもしないってことは、きっと正解。俺が何かしたんだ。昨日か今日かその前か分からないけど、健人を怒らせるようなことを俺はしたんだ。反省したいけど記憶に無いことに対して反省できるわけがない。でも寝室を出て行く健人を引き止めることはもっとできない。何も分からない俺に引き止める資格は無い。引き止める体力も無い。目を閉じる。胃がムカムカしている。このまま今日が終わるのは嫌だと思うのに身体は限界を迎える。次第に意識は遠のいていく。
*
身体が揺れている。原因は分からない。ただ揺れてるなあとぼんやり思う。それにあつい。暑い。汗が耳の後ろを流れていく。拭おうとすれば声が聞こえた。あ、とか、ん、とか色っぽい声。それにしても暑い。春なのにこの暑さはヤベーってマジで地球温暖化進みすぎ。
「あッ」
「あ?」
目の前に健人がいた。健人が俺の上に乗っかっていた。俺の下半身に乗っていた。正しくは、俺のアレの上に、乗っていた。いや刺さってる? 入ってる? 出たり入ったり、してる?
「え、何やってんの、健人?」
訊くまでもない。誰がどう見ても俺達はヤっている。セックスをしている。でもなんで? どういう流れで? カーテンの隙間から漏れる光が眩しい。朝だ。べつに朝からヤるのは駄目とは思わないけど、そうじゃなくて、そうじゃなくて。
「は、っ、きもち……」
「…………」
俺の意思をガン無視して腰を振ってる健人はとても気持ちよさそうだった。絶景。朝から俺はなんて素敵な景色を見せられているのか! 思わず健人の腰に手を伸ばせばびっくりしたように健人の身体が跳ねた。
「何勝手に俺の身体使ってんの?」
「っ」
「てか何これ、なんでいきなり発情してんの」
潤んだ瞳。額から流れる汗。赤い頬。普段エロいこととは無縁そうな顔してるのにヤる時は意外なほど乱れる健人。滅茶苦茶可愛い。顔も身体も全部可愛い。あまりにも可愛くて俺は元気になる。何がって、ナニが、なんだけど。
「騎乗位とか珍しいじゃん」
「んっ」
下から腰を打ち付ければ眉を寄せて唇を噛む。可愛い可愛い俺の健人。何がどうしていきなり寝起きにヤってるのか分からないけど、説明は後だ。セックスに至る経緯とかセックスしてる理由を理解するのは終わってからでいい。俺は健人の細い腰を掴んで突き上げる。堪えきれなかった甘い声が上がる。涙なのか汗なのか分からない雫が健人の頬から落ちる。舐めたくて身体を起こす。舐めるより先に健人の頭が近付いてきたのでキスをする。舌を入れれば積極的に絡めてくる。小さな頭を掴んで夢中で口内を貪る。可愛い。キスをしながら突き上げる。健人の手が縋るように俺の背中に伸びる。汗で滑って爪の先が皮膚を掻く。痛かったけど気持ちよさが勝ってどうでもよくなる。触れている部分すべてが気持ちいい。健人の身体を後ろに倒して一度性器を抜く。ゴムもつけずにヤってたことに驚く。だけど今更つける余裕は無い。期待するような目で見つめられて対話する余裕も無い。健人の足を掴み左右に開き、既にぐずぐずになっているソコに挿入する。気持ちよくって仕方ない。律動する度に健人が荒い息と甘い声を漏らす。汗が散る。暑い。スゲー暑いけどやめられない。汗で濡れた髪を掻き上げれば健人の強い視線を感じた。熱に浮かされたような顔で俺を見る。「なに?」掠れた声で尋ねれば「顔が良い」と言われて俺は笑った。そういえば初めてした時も同じことを言われた。あの時も暑かった。汗だくになりながら夢中で抱き合っていた。
付き合い始めてから約五ヶ月。度々そういう雰囲気になるものの恥ずかしさが先行して俺達はキスから先に進めずにいた。しかし夏休みに入って健人に「お盆は親が田舎に帰るから家に誰もいなくなるんだけど……泊まりに来る?」と、まるでセックス前提のお家デートに誘う常套句を告げられて俺は覚悟を決めた。健人だってそのつもりだったに違いない。毎年家族みんなで田舎に帰ってたのに恋人ができた今年は留守番するって、絶対そういうことだ。
そうして迎えた八月某日。健人の家には何度も遊びに行ってるし泊まったこともあるというのに、俺は初めて恋人の家に足を踏み入れたヘタレ野郎みたいに緊張していた。ゲームをするのも健人の母さんが用意してくれていた冷やし中華を食うのも本を読む健人の隣でドラマの再放送を見るのも夕飯を買いにコンビニに行くのも先にどうぞって言われて風呂に入るのも健人が風呂から出てくるのを待つのも全部全部緊張した。健人も緊張していた。いつも余裕で俺に勝つゲームに負けてたし苦手な錦糸卵が入った冷やし中華を嫌な顔せず黙々と食ってたし上下逆さまにして本を読んでたし家から三分のコンビニへ行くのに道を間違えそうになってたし俺に風呂を譲る時の声はあからさまに上擦ってたし風呂に入ってる時間はいつもの三倍くらい長かった。今夜セックスをする、という考えが頭にある俺達の一日は実にぎこちなかった。だけど今思えばそれも楽しい思い出の一つだ。
皮膚を突き破りそうな心臓を抱えたままベッドで向き合ったこと。軽いキスをしてから、深いキスをしたこと。頬に、首に、肩に、触れたこと。服を脱がし合ったこと。胸を、腹を、腰を、舐めたこと。性器に手を伸ばし、優しく撫で、舌で愛撫したこと。予め用意していた道具を使い、そっと指を入れたこと。時間をかけて解したこと。照れた健人が枕で顔を隠していたこと。その枕を奪い取ったこと。怒られて、でも笑ったこと。コンドームをつける姿をまじまじと見つめられて恥ずかしかったこと。健人のソコに俺のソレを当てたこと。押しつけたこと。入り込んだこと。ひとつひとつの動作にドキドキしたし、その動作もドキドキも俺にとってはひとつ残らず大事な思い出で、一生忘れたくないと思う。
健人の中は狭くてきつかったけど、想像してたよりずっと楽に入ることができて拍子抜けした。お互い初めてだから今日は上手くいかないかもしれないと思っていた。だけど結構すんなり入ったし、健人もAV女優並みに乱れ狂ったりはしないものの小さな喘ぎ声を漏らしていたし、俺だって普通に気持ちいいし、つーか正直、普通どころか滅茶苦茶気持ちいいし、これはヤベー、マジでヤベー、って気付いたら欲に任せて腰を振っていた。夢中になって健人の身体を貪った。一回イクくらいじゃ全然足りなくて何回もヤった。健人は新しいゴムをつける度に興味津々で見てきた。「ちんこ見られんの恥ずかしいんだけど」「ケツの穴見られる僕の方が恥ずかしいよ」お互い少し余裕が出てきたのか冗談みたいな会話をして笑ってそしてまた抱き合った。健人も俺の身体も熱くて、暑くて、考えてみたらエアコンついてねーじゃん、って。さすがにもう無理だと全てを出し切った性器を健人の中から抜いた瞬間に気付いた。まだ後ろでイけるほど慣れていない健人は性器を勃たせたまま、汗を拭う俺をじっと見ていた。「なに?」と訊けば「顔が良い」って言われて、照れ臭くてでも嬉しくて、最後はフェラしてイかせてやった。口の端に垂れた精液を舌で拭えば汗と混じった変な味がした。
「ふはっ」
「……なに笑ってんの」
ゆるゆると中を揺さぶりながら思い出し笑いをすると健人が怪訝な顔をした。成長したな、と思う。あれから七年経つんだから成長してない方がおかしいけど、今ではセックスの最中に相手の表情をじっくり見たり気遣ったり過去を思い出せるくらいには余裕ができた。
「初めての時も暑かったなあって。エアコンつけるの忘れるくらい緊張してたし、もうなんか色々と必死だったよな」
「……必死だった割には終わった後に『初めてでこれは上出来じゃね?』とか調子に乗ったこと言ってたよね」
「だってまさか健人があんなに気持ちよくなってくれるとは思わなかったからさあ」
「……あの時はお風呂で準備してたし、それこそ付き合い始めてから自分で後ろいじって、いつか来たるセックスに備えてたからね。僕が気持ちよくなるのは当然だよね」
「え? なにそれ初耳なんだけど?」
「うん、初めて言ったからね。リュウ君は自分にセックスの才能があるとか身体の相性抜群って思ってたみたいだけど、多分あれ全部僕の努力の賜物」
「うそだろ……?」
あの日を迎えるために健人は準備をしていた? 自分で後ろをいじってた? なんてことだ。俺のテクは永遠に語り継がれるレベルの上手さだと思ってたのに。初回でこの相性の良さ、やっぱり俺達は出会うべくして出会ったんだ、俺達は運命のカップルだ! と喜んでたのに。
「……ショック?」
「ショックに決まってるだろ。だって俺バカみたいじゃん。何も知らずに浮かれてさ。健人が裏で頑張ってたことにも気付かないなんて、彼氏失格じゃん」
呆然として動きを止めた俺を見て健人は笑う。火照った身体に汗が滲んでいる。扇情的な姿に似合わない子供っぽい笑みだった。
「あの当時、自分で準備してたのを知られてたら、恥ずかしくて死んでたよ」
「…………」
「だって準備するくらいリュウ君とエッチしたいと思ってたんだから」
健人の笑顔にきゅっと胸が締め付けられる。嬉しい。好き。スゲー好き。大好き。愛してる。たまらない気持ちになって健人の頬へ手を伸ばす。俺が前屈みになった衝撃に感じたのかもしれない。んっ、と小さな声を漏らす。汗で額に張り付いた前髪をよけてやる。頭を撫でられた猫みたいに目を細める。可愛い。スゲー可愛い。世界で一番可愛い。キスをして、腰の動きを再開する。やっぱり成長してないかもしれない。いつだって俺は初めての時と変わらないくらい必死だ。健人に夢中だ。一生夢中だ。
力尽きて死んだようにベッドの上に倒れると、すぐさま健人はエアコンの電源を入れた。確かにこの暑さじゃエアコンを使わないと死にそうだけど、死にそうなくらい部屋の中が暑いことに驚く。それと躊躇いなくエアコンを入れた健人にも驚く。まずどうしてこんなに暑いのか疑問に思うものじゃないのか。取り敢えず窓を開けるものじゃないのか。さすがに三月にエアコンを使うのは早すぎだろ。驚いてる俺の隣で健人は四肢を投げ出しながらぼやく。
「……やばい、無理、暑くて死ぬ、熱中症になる」
「熱中症にはならねえだろ」
「……エアコン無しの部屋でヤってたら熱中症になってもおかしくないよ」
「さすがに三月で熱中症になったら笑われるって。どんだけ激しいプレイしてたんだよ」
だけど健人の気持ちは分からなくもない。確かに熱中症になってもおかしくないくらい暑い。ようやくエアコンが稼働したのか、僅かな機械音と共に冷たい風が流れてくる。気持ちいいけど全然足りない。もっと早く部屋を冷やしてほしい。
「てか初エアコンじゃん」
引っ越してきた時に一度試運転をしたけど実用するのは初めてだ。実家の古いエアコンは使う度に今にも壊れそうな音がしてたけど、新しいのは音も静かだし心なしか空気が綺麗な気がする。
「あの青いランプって何だろうな」
「空気清浄してる印だよ」
「今時のエアコンってそんな機能もついてんのか。つーか健人、なんで知ってんの」
ごろりと健人の方に身体を向ける。健人は天井に視線を向けたまま俺を見ようとしなかったし答えようともしなかった。話すのも億劫なほど疲れてるのかもしれない。まあ、あれだけヤれば疲れるだろうけど。俺だって疲れてるけど。それに暑いし。喉渇いたし。
「飲み物取ってくるけど、健人もいるよな?」
「…………」
「返事をしない悪い子には持ってきてあげませんよー?」
身体を起こして茶化すように言えばちらりと俺を見た。なんとなく、機嫌が悪い気がする。さっきまで仲良くセックスしてたのに健人の目が冷たく感じる。でも俺は怒らせるようなことはしてない。ケンカするほど多くの言葉も交わしてない。じゃあ体調が悪いとか?
「どうした?」
「……どうしたって?」
「あんま調子良くなさそうに見えるんだけど……マジで熱中症?」
見下ろせば冷たい目で真っ直ぐ見つめられる。やっぱり何かが変だ。額に手を当てる。熱中症とか風邪の類いの熱はないと思う。だけどいつもの健人とは違う。何かが違う。
「大丈夫か?」
「……なにが?」
「いや、なんか、なんだろう、健人、ちょっと変じゃね?」
「……変って?」
「いつもと違うというか、なんというか……」
「……いつもと違う僕は嫌い?」
「嫌いなわけねえだろ」
即答すれば笑われる。セックス中は可愛らしい子供っぽい笑みを見せたのに、今はある意味大人っぽい乾いた笑みを見せる。なんだろう。何が起きているんだろう。なんで俺は健人に責められるような目で見られているんだろう。どうしてバカにしたように笑われてるんだろう。
「リュウ君は本当に僕が好きだね」
「当たり前だろ?」
「……うん。当たり前だね」
健人が身体を起こす。正面から向き合うけど健人の目は変わらなくて不安になる。だから確かめるように訊いてしまう。
「俺は一生お前のことが好きだよ。健人だってそうだろ?」
「…………」
「俺のこと、好きだよな?」
「…………」
「健人……ッ!」
首を傾げた瞬間だった。突然健人に殴られた。といってもプロボクサーや殴り慣れてる不良みたいな強さはない。軽く握った拳で軽く左頬を打たれただけ。骨が折れることもなければ身体が倒れることもなかったし、叫んだり喚いたりするほど痛くもなかった。ただ驚いた。突然の暴力にびっくりして思考が停止した。
「リュウ君はいいよね」
「?」
「何も知らなくて、気楽で、いいよね」
「それってどういう」
意味だ? 訊きたかったのに二発目の拳が飛んできて訊けずに終わった。さっきよりも強い力だった。ベッドから落ちそうになるくらいには勢いのある拳だった。それに痛かった。頬の内側の肉と歯がぶつかったのか、左頬が痺れている。痛ェ。自然と漏れた感想を健人は冷めた顔をして聞いている。やっぱり怒ってる。でもどことなく傷ついてるような目をしてる。悲しんでいるようにも見える。健人に何が起きているのか全然分からない。
「おわっ」
いきなり両肩を押されてベッドに転がる。シーツに頭を打ち付けた衝撃と健人に頬を打たれる衝撃が同時に響く。今度は痛ェと呑気に感想を漏らす暇は与えられなかった。左頬と右頬を連続で殴打される。最初は躊躇っていたのか、もしくは手加減していたのか、弱かった力が回を増すごとに強くなる。頬だけにとどまらず側頭部も顎も肩も胸も、馬乗りになった健人に滅茶苦茶に殴られる。その度に衝撃で身体が跳ねる。次に来る痛みに耐えようと無意識に息を止めては身体を強張らせる。繰り返していれば次第に呼吸が乱れていく。息を吐くのも吸うのも上手くいかない。ギシギシと軋む音を立たせながらベッドは揺れ、視界も揺れる。苦しそうな顔で俺を殴っている健人がコマ送りの映像みたいに見える。
「一生好きとか、バカじゃないの?」
殴りながら健人は言う。
「人は変わるんだよ」
視界が暗くなる。目も鼻も口も柔らかく重たい物で塞がれる。二週間ほど前、新居で使う物を揃えようと二人で家具屋に行った時に買った枕が俺の顔面を覆ってる。枕は柔らかい派の健人と硬い派の俺はそれぞれ別の種類の枕を買った。この柔らかさは健人が使ってる枕だ、と気付いたところで俺は何もできない。
「普通に生きてたら、人の気持ちは変わるものなんだよ……!」
枕を押しつけられる。柔らかくとも布は布だ。たとえ通気性の良い素材でも人間が満足な空気を吸えるくらい通気性のある枕は存在しないだろう。息が苦しくなってくる。健人の名前を呼んでみるけど呻き声にしかならない。
「それなのにリュウ君だけは変わらなくて、何年経っても毎日変わらなくて……もうこんなの無理っ、耐えられないっ!」
枕を退かそうと暗闇の中で手を動かす。健人の腕を掴むことに成功したけど健人の腕はビクリともしない。健人の力が強すぎるのか、俺の力が弱すぎるのか、健人の手は枕から離れない。苦しくて足が跳ねる。暴れたいけど健人が上に乗っているので思うように身体を動かせない。
「リュウ君なんて、リュウ君なんてっ……!」
あ、これはマジでヤバい。脳味噌が警鐘を鳴らす。健人から腕を離して手当たり次第に振る。暴れる。健人の身体を打つ感触がした。だけどそれでも健人は枕から手を離さない。苦しい。空気が吸えない。吐き出せない。息ができない。
「あの時死ねばよかったのに……!」
*
「あんまん、やっぱ肉まん、でもピザまんも捨てがたい……健人は何にすんの?」
「僕は唐揚げが食べたいな」
「突然の変化球やめろよ」
「おでんもいいなあ」
「バカ、おでんとか言うな! 昆布巻き食いたくなるだろ!」
「好きな具がマイナーすぎるでしょ」
ケラケラと楽しそうに健人は笑う。初めて俺が「おでんといえば昆布巻きだよな!」と言った時も「昆布巻きがメインだと思ってる人初めて見た」なんて言って今と同じように笑っていた。あれは中二の冬だった。学校帰りにコンビニの前を通ると、おでんはじめました、と書かれた旗が立っていて思わず俺と健人は吸い寄せられるようにコンビニに入った。そしてなけなしの小遣いで買ったおでん。俺は昆布巻き二つ、健人は餅巾着とはんぺん。どんだけ昆布巻き好きなのってお腹を抱えて笑われた。寒さで鼻の頭を赤くしながら笑う健人は可愛かった。あの頃から冬になると決まっておでんの話題で笑い合う。大人になった今でも笑い合えるのが凄く嬉しい。
「コンビニのおでんはマジで美味いよなあ」
「美味しいのはおでんだけじゃないでしょ。プリンとかケーキとかスイーツ系も普通に美味しい」
「やめろ、これ以上選択肢を増やすな!」
家から徒歩五分のコンビニに向かって歩く時間が好きだ。腹減ったからコンビニ行こうぜ、って財布片手に夜の道を歩く二人。近所に住んでるのが丸分かりな気の抜けた服装。互いに気張ることの無いゆるっとした雰囲気。誰が見ても長年付き合ってる同棲カップルって感じがして、スゲー良い。
「やべえ、決められねえ、何食おうかなあ」
「せめてコンビニ着いてから悩みなよ」
「実物見たらもっと決められなくなるだろ」
「じゃあいっそ食べたいやつ全部買ったら?」
「そんな贅沢したらバチが当たるだろ」
「このレベルの贅沢でバチが当たったら人類滅んでるよ」
俺は割と真剣に言ったのだが、健人は軽く笑った。その笑みにチクリと胸が痛む。俺の思う贅沢は健人にとって贅沢じゃない。健人と俺の金銭感覚には大きな差がある。日々働いて収入を得ている社会人の健人と学生気分が抜けきらない無職の俺とじゃ全然違う。その事実が少し悔しい。
「じゃあ全部買っちまおうかな」
「ちゃんと食べきれる量にしてね」
「そこは二人で協力しようぜ」
「えー……昆布巻きは一本が限界だからね」
寒さで鼻の頭を赤くしてる健人は可愛い。コートから飛び出してる細い手を握ろうとすれば「ここ外だって!」と振り払われる。やり取りも仕草も前と変わらないんだけど、実際には変わってしまったことが沢山ある。例えば今着てるコート。仕事にも使ってるソレは多分なかなか良い値段がする。コートの中に着てる服も部屋着にするには勿体ない高級なやつ。ポケットに突っ込んでる財布は勿論ブランド物で、スニーカーも学生時代は手が届かなかったモデルのやつだ。どちらかといえば倹約家の健人が高級なものを身につけてるって、俺にとっては結構衝撃。だけど社会人として稼いでいる今の健人にとって高い服や靴を買うのは普通のことなんだろう。俺は健人のことを変わったと思うけど、それは俺が変わっていないからだ。同じように年は取っているはずなのに俺は変わらない。変われない。置いてきぼりを食ってるみたいで、寂しい。
「なあ健人」
振り払われた手をもう一度伸ばしてみる。指先に触れればやっぱり逃げられる。
「だから外だって」
「好き」
「え、いきなり何」
「健人、好き」
「リュウ君?」
「好きだよ、お前のこと」
立ち止まって健人を見る。振り返った健人は驚いたようにパチパチと瞬きをした。鼻だけじゃなく頬も赤くなっている。照れて赤くなったのではない。寒さで赤くなっただけ。前は俺に好きって言われただけで恥ずかしそうにしてたのに。照れて真っ赤になってたのに。大人になっちまったんだなあ。って、また健人の変わったところを見つけて寂しくなる。
「どうしたの?」
立ち止まって俺を見上げてくる健人。何年経っても身長差が変わらないのが面白い。俺より頭ひとつ分小さい健人。可愛い。可愛い。好き。大好き。
「俺、マジで健人のことが好きなんだ。昨日も好きだったし、明日も絶対好きだし、この先も、どれだけ健人が変わってもずっと好きだ」
「……本当にどうしたの?」
「好き、だから……これからもずっと一緒にいてほしい」
随分弱気な言葉を吐いたものだ。いつもの俺だったら「これからもずっと一緒にいような」と同意を求める言葉を吐いただろう。間違ってもお願いするように言ったりしなかった。こんなの俺らしくない。でも変わった健人を見てると弱気になってしまうんだ。今の健人は俺が同意を求めても頷かない気がするんだ。どうしてだろう。高い服を着てるから? 贅沢の基準が俺と変わってしまったから? 大人になったから? 一生変われない俺と日々変わる健人の間に様々な違いが生まれているから? 昨日までは当たり前のようにずっと一緒にいられると思ってたのに、どうしてか今日は不安になってしまう。
「健人」
らしくない俺の姿に戸惑う健人にもう一度手を伸ばす。また振り払われたら心が折れる、と内心怯えながらそっと触れてみる。健人は拒絶しなかった。おずおずと指先を握っても逃げなかった。ただ困ったように俺を見ていた。多分滅多に見ない俺の弱気な姿にどうすればいいのか分からないんだと思う。俺だって分からない。昨日まで三月だったのに今日は十二月だし、二十二歳だったのが二十六歳になってるし、続きを楽しみにしてた漫画は完結してるし、好きなバンドは解散してるし、途中だったゲームはとうの昔にクリアしてるし、携帯は新しい機種になってるし、事故のことや現在の状況について頭にクエスチョンマークを浮かべる俺にひとつずつ事情を説明する健人は会議でプレゼンをしてるデキる営業マンって感じだし、会社でいじめられたらどうしようって不安そうにしてたのが嘘みたいなほど今の健人は社会人として堂々としてるし、立派な大人として生きてるし、変わっているものが多すぎてどうすればいいのか分からない。でもだからこそ、変わらない約束がしたいんだと思う。色んなことが変わってしまうけど、それでも健人は俺のそばにいるから大丈夫、って安心したいんだ。
「俺は明日も健人と一緒にいられるよな」
指先だけじゃなく手のひらをしっかり握ろうとした。怒ったり逃げる素振りを見せなかったから、この手はちゃんと繋ぐことができる。俺は確信した。だけど俺の確信なんて当てにならないものだった。
「健人君?」
背後から誰かが健人を呼んだ。はっとしたように健人は俺の手を弾き、俺の背後にいる誰かを見た。健人の視線を追って振り返れば、高そうなスーツに高そうなコートを羽織ったいかにも仕事ができる系のサラリーマンがいた。俺達より年上だけどオッサンと呼ばれるほどではない、二十代後半から三十代前半くらいの男。なかなか高身長。結構イケメン。多分いや絶対女性社員にモテている奴、が、健人を呼んだ。柔らかな笑みを浮かべて「偶然だね」と言っている。お前は一体誰だ。
「渡辺さん、休日出勤お疲れ様です」
「おー、まじで疲れたわ。週明け部長のこと殴るしかないな」
「僕もお手伝いしますよ」
ふふ。あはは。小さな笑い声が二人の間で交わされる。そしてちょっとした挨拶がてらの会話を終えた二人が俺を見る。友達の友達に会ってしまった時のような何とも言えない気まずい空気。最悪だ。空気もそうだけど、タイミングも最悪だ。今は見知らぬ奴が現れていい状況じゃなかっただろ。なんだよ、誰だよお前、なんで健人と仲良さげに話してんだよ。
「リュウ君、こちらは渡辺さん。仕事の先輩」
「……どうも」
無愛想になってしまった俺を気にすることもなく、男は微笑みながら「はじめまして」と言って手を差し出してきた。差し出された手を握らないわけにもいかず渋々俺は男の大きな手を握った。俺が握りたかったのはこんな見知らぬ男の手じゃないのに。不快極まりないモヤモヤした気持ちが胸の中で渦巻く。
「それで渡辺さん、彼は友達のリュウ君です」
「君がリュウ君か。よく健人君から君の話を聞くから、会ってみたかったんだよね」
握った手が離れない。渡辺さんは興味深そうに見てくる。見つめ返すのも気まずくて曖昧な笑みを浮かべて視線を下げる。
「噂通りカッコイイね」
「ちょ、渡辺さん!」
「学生の頃からの付き合いなんだって? 羨ましいなあ。社会人になっても関係が続くなんて本当に仲が良いんだね」
なんだろう。とても居心地が悪い。べつに嫌なことを言われてるわけじゃないのに。むしろ良いことを言われてるのに。そうなんすよー俺達めっちゃ仲良いんすよ! って普段の俺なら言うだろうに、何故か今日は言えない。口の中が乾いてる。喉が渇いている。唾を飲み込む。二回。三回。どんなに飲み込んでも一向に潤わない。
「それにしても健人君の私服って新鮮だね」
ようやく手を離した男は健人に向き直って言った。健人は赤い顔をしながら乱れてもいない髪を撫でる。その頬の赤さは寒さじゃなくて照れだ。恥ずかしがるように四方八方にふわふわ揺れてるくせっ毛の髪を押さえている。まるで社内の誰もが一目置いてる顔良し頭良しの営業部のエースに突然話しかけられた女性社員みたいな反応。新鮮ってなんですかー! てか私服見られるの恥ずかしいんですけど! そんな見ないでください! なんてな。
「新鮮ってなんですか。てか私服見られるの恥ずかしいんで、そんな見ないでください」
「いやこれは見るでしょ。会社では服も髪もきちっとしてる健人君の完全オフモードの緩い姿を見れるのは貴重なんだから」
「マジでやめてくださいって」
両手で顔を隠す健人に愉快な笑い声をあげる男。え何これ両片思いの奴ら? 恋人になるまで秒読みの二人? 健人の恋人は俺であって渡辺さんじゃないよな? 渡辺さんと健人は会社の先輩と後輩だよな? それ以上でも以下でもないよな? それなのに、この恋人であるはずの俺の疎外感は何だ。俺の部外者的空気は何だ。確かに仕事的な意味で部外者なのは俺だけど、今日は仕事が休みの日で、健人のオフに一緒に過ごしてるのは恋人である俺で、そんな時に突然現れた男が本来ならば部外者になるはずで、それなのにこの仕打ちは一体何なんだ。
「二人は一緒に住んでるんだよね」
確認するように訊いたけど確信犯だ。答えを知ってて何故そんな問いをするんだろう。それも健人じゃなくて敢えて俺に視線を向けて訊いた。というか健人はこの男にどこまで話してるんだ。男は俺の何を知っているんだ。
「そう、リュウ君と僕はルームシェアしてるんですよ」
なかなか答えない俺の代わりに健人が答えた。驚くほど今日は言葉が出てこない。友達の前でも健人の前でも俺はよく喋る人間のはずなのに。
「ルームシェアかあ。いいなあ」
「渡辺さんは人と生活するの向いてないタイプじゃないですか」
「そんなことないよ。誰もいない家に一人でいるの寂しかったりするからね」
「嘘つかないでくださいよ」
「嘘じゃないよ」
ほらまた両片思い恋人まで秒読みのじれったい二人になってる。マジで俺部外者。ただの背景。すぐそばの電柱と同じ。少し先にある信号機と同化できる。脇役にもなれやしない。モブ以下。だって二人は二人しか見ていない。二人は二人の世界に浸ってる。好きだ、って言ったのに。ずっと一緒にいてほしいって俺は言ったのに。でも答えは聞いてなかったな。手も握れなかったな。あれ俺もしかして負ける? 突如現れた会社の先輩とやらに恋人の座を奪われる? 冗談じゃない。そんなことあってたまるか!
「あのっ……えっと、すいません……お、俺達、今からコンビニ行くんで……」
絶対健人は渡さねえからな! 健人と俺の仲を引き裂くなんて百億年早ェんだよ! 大声で宣言してやろうという気合いはあったはずなのに、実際に口から飛び出たのは内気を極めたコミュ障みたいな挙動不審の声と言葉だった。健人も男もポカンとした間抜け面で俺を見る。特に健人の表情がヤバい。リュウ君キャラ変した? 頭おかしくなった? 大丈夫? みたいな顔をしてる。やめろ俺を見るなと言いたいけど結局言えずに俯く。ああ駄目だ、今の俺はスゲー駄目だ。分かってるけどじゃあどうすればいいのかって、打開策は全く浮かばない。
「そっか、ごめん、邪魔しちゃったね」
何とも言えない気まずい沈黙を破ったのは男だった。男は心から申し訳なさそうに、だけど深刻になりすぎず、俺達に気遣わせない程度に明るい声のトーンで謝った。頭を上げれば完璧な表情がそこにあった。「気が利かなくて申し訳ない!」両手を合わせる姿は大人のくせに茶目っ気がある。間違えちゃったと恥ずかしそうに赤く染める頬に憎めない笑み。これはモテる。絶対モテる。健人が女性社員のような反応をしてしまうのも仕方ない。……仕方ない? 何も仕方なくなんかねーだろ。
「じゃあ俺はここで。健人君、また週明けよろしくね」
「え、あ、はいっ、よろしくお願いします」
「二人とも良い週末を」
爽やかで鮮やかな去り方。デキる大人。会社でも有能枠として働いてるに違いない。そんな男を健人は好き、じゃなくて憧れてる。そうだ憧れてるんだ。男の背中をじっと見つめる瞳には憧れの感情が込められている。そりゃあ仕事がバリバリできる男には誰だって憧れるから。と、言い聞かせてみるけど、憧れるのもアウトだ。だって健人のヒーローは俺だろ。俺以外の野郎にキラキラした視線を送るなんて許せない。
「なんなの、あいつ」
「渡辺さん。会社の先輩だよ」
「それは分かったけど、健人にとってなんなの」
「僕にとって? お世話になってる先輩だけど?」
分かってる分かってるんだけど、煮え切らない気持ちになる。拳を握る。男の手の感触が残っていて気持ち悪い。俺は健人と手を握るはずだったのに。でも今ここで健人の手を握ろうとしても絶対拒否される。外だからやめて、さっきも渡辺さんに見られるところだったじゃん、って怒られる。
「どうしてルームシェアって言ったんだ?」
「うん?」
「同棲してるって言えばよかったのに」
「言うわけないでしょ」
「…………」
「ねえ、拗ねないでよ」
「拗ねてる?」
「拗ねてるっていうか、やきもち? 僕が渡辺さんと喋ってるとあからさまに不機嫌になってさあ」
「…………」
「子供でもあるまいし、あの態度はどうかと思うよ」
どうかと思うと言われても、機嫌が悪い時にへらへら笑ってられるかよ。あんな嬉しそうな顔しながら話してて、恥ずかしがるように髪を整えて、二人して俺を部外者にして、普通でいられるわけがない。健人がもっと俺の味方になってくれたら、あの男に俺達の仲の良さを見せつけてくれたら、お邪魔虫は男であると態度で示してくれたら、俺は不機嫌になったりしなかった。
「まあいいや、コンビニ行くよ」
溜め息をひとつ吐き、コンビニ向かって歩き始めた健人。俺の気持ちなんかどうでもいいと軽くあしらわれたような気がして、傷つく。俺は悔しかったのに。悲しかったのに。ムカついたのに。健人は何事も無かったかのように普通に歩いて行ってしまう。高いコートを着た背中が遠ざかっていく。健人と距離が離れていく。心の距離も離れているのだろうか。不安になる。俺はずっと不安になっている。今の健人にとって俺はどうでもいいのか、俺は必要ないのか……。
「リュウ君?」
振り向いた健人は眉を寄せながら首を傾げる。動かない俺を不審に思ってる。
「どうしたの?」
拳を強く握る。俯く。自分の履いてる靴を見つめる。健人と色違いの、学生時代は手が届かなかったモデルのスニーカー。いつ買ったか分からない。覚えてない。泣きたくなる。
「……リュウ君」
再び溜め息が聞こえた。足音も聞こえた。健人が俺の前に戻ってきた。きっと子供みたいに拗ねてる俺に呆れてる。そっと顔を上げれば、呆れてるというより困っているような顔をした健人と目が合った。
「ごめん。言い過ぎた。どう考えても今のリュウ君にとって気分の良い状況じゃなかったよね」
「…………」
「謝るから許して」
ごめんね。両手を合わせる姿が男と重なって複雑な気持ちになった。でも俺が勝手に重ねただけで実際に今目の前にいるのは健人だけだ。冷静になろう。落ち着こう。よく考えよう。今、俺の目に映っているのは健人だけ。ここにいるのは俺と健人だけ。健人はちゃんと俺を見てるし、俺も健人を見てる。邪魔者はいない。健人と俺の二人だけの世界に戻った。無事戻ってこれた。いや、俺が嫉妬して健人とあの男の二人の世界があるんじゃないかと想像しただけで、本当は俺と健人以外の世界なんて存在しなかったのかもしれない。健人はちゃんと俺を好きで俺だけを見て俺と二人の世界を生きていたのかもしれない。かもしれないじゃなくて、絶対そうだ。じゃなきゃ今この場で律儀に謝って俺を見つめたりしないだろう。こうして当たり前のように俺達二人の世界に生きていないだろう。仮にあの男に気があるとしたら未練がましいことを言ったり、酷い態度を取った俺を叱ったり、それこそ俺を置いて男を追いかけただろう。それをせずに健人はここにいる。これが答えだ。
「リュウ君?」
不安になる必要は無かった。大丈夫だ。俺達は大丈夫なんだ。俺は安堵に深い息を吐いた。そして笑った。いつものように笑って、ちょっと意地悪なことを言ってみた。
「やだ絶対許さねえ」
「え、許してくれないの?」
「許さねえよ。俺以外の男とイチャイチャしやがって!」
歩き出す。健人が慌ててついてくる。許してくれないの? 許さねー! どうしたら許してくれる? 何しても許しませんー! 繰り返す内に健人が笑い出す。俺だって笑う。いつもの冗談を言い合える空気に戻った。仲の良い俺達に戻った。部外者が消えたので俺と健人の世界に平和が戻った。
「あんまんも肉まんもピザまんも全部買ってあげるから許して!」
「贅沢しすぎだろ」
「ボーナス入ったからいいでしょ。大体これくらいじゃ贅沢って言わないよ」
大人の余裕を見せつけられて悔しくなる。俺は健人にどつくようにぶつかって、肩を押しつけた。そのまま肩に寄り掛かるようにして歩く。歩きにくいと文句を言いつつも健人は逃げない。俺を拒否しない。しょうがないなあって親が子を見るような目を向けてくる。ますます俺が子供っぽく思えて悔しさ倍増。でもだからって健人のように大人にはなれない。俺は仕事もしてなければ頭は二十二歳で止まってる。今日頑張って大人ぶったところで明日には子供に戻るんだ。悔しい。だけどこんな俺でも健人は一緒にいてくれる。大人になっても健人は子供みたいな俺の隣にいてくれる。きっと明日もこれからもずっと、俺達は一緒にいる。今はそう信じることができる。
「昆布巻き十本買ってくれたら許してやる」
「どんだけ昆布巻き好きなの」
声を上げて笑う。その姿は中学生の時に初めておでんの話題で笑った時と変わらない。これからもずっと変わらない。俺達は来年の冬もおでんの話題で笑い合うに違いない。俺は確信した。この確信は外れたりしない。絶対に。
*
泣き声が聞こえる。俺のそばで誰かが泣いている。小さな呻き声を上げながら泣いている。この泣き方をする人を俺は知っている。今そいつはボロボロ涙を零しているに違いない。いつもそうだから。本人は泣くのを我慢してるつもりだけど傍から見たら全然我慢できていない、面白い泣き方だ。可愛いくてちょっとブサイクなのが魅力的。俺はそんな健人の泣き顔が実は好きだったりして……って、健人が泣いてるって、マジ?
「どうした健人っ!」
勢いよく身体を起こすと頭がくらくらした。しかしそんなことはどうでもいい。健人が泣いている。床に座り込んでボロボロ涙を零している。俺は転げ落ちるようにベッドから下りると健人の前に座って肩を掴んだ。うー……と呻きながら泣く健人。ぎゅっと目を瞑って俺を見ようとしない。
「何があった? どっか痛むのか?」
肩を撫でながら健人の身体を見る。怪我をしてる様子はない。だけど泣き止む様子もない。
「どうしたんだよ、健人、泣くなよ」
抱きしめてみる。健人の手は俺の背中に回らない。床に投げ出した状態のまま動かない。小さな頭を撫でてもポンポンと背中を叩いても反応しない。泣く以外の機能を失ったような健人に怖くなる。もう一度顔を見ようと腕を緩めれば、健人の頬に擦れたような血の痕がついていた。
「怪我してんじゃねえか!」
頭? 耳の後ろとか? 慎重に健人の頭部を見るけどやっぱり見つけられない。でも血が出てるということは絶対どこか怪我してるんだ。必死になって怪我の元を探していれば健人がようやく口を開いた。
「リュウ君……ごめん」
「ごめん? お前は何もしてないだろ? それよりどこ怪我したんだよ。早く手当てしねえと!」
「ごめんね、リュウ君っ」
今度は逆に健人の方から抱きついてきた。泣き声の合間にごめんごめんと何度も謝る。謝る理由も泣いてる理由も何も分からないが、とにかく落ち着かせないと。このままじゃまともに話もできない。怪我の手当てもできない。
「健人、ちょっと落ち着けよ」
背中に回された手の力がとても強い。健人のどこにこんな力があるのか。驚くくらい強くて、痛い。そうだ、痛い。結構痛い。なんか、身体の至る所が痛い、気がする。
「あ?」
ふと口元が痛痒く感じて手の甲で拭うと血がついた。唇を舐めれば紙で指を切った時のようなピリッとした痛みが響く。それから血の味。もしかして怪我をしているのは健人じゃなくて、俺?
「ちょ、健人、待て、一旦離してくれねえか?」
健人が抱きしめていた手をゆっくり離していく。やっぱり身体のあちこちが痛い。俺から離れた健人が怯えた顔で俺を見る。俺は自分の身体を見た。七分丈の白いシャツのあらゆる所が茶色く汚れていた。泥遊びをして汚れたような茶色じゃない。赤みの混じった、血が乾いた茶色だ。服を捲ってみれば酷い有様だった。どす黒い色をした大量の痣。指先で触れれば飛び跳ねるくらい痛くてびっくりした。
「っ、なんだこれ! いつこんな怪我……」
はっとして健人を見る。健人は泣きながら震えている。何かに恐れ、怯えてる。よく分からないけど多分今、大変なことが起きている。
「健人は大丈夫か? どこも怪我してねえ?」
黒い長袖のシャツを捲る。俺と違って腹も胸も背中も健康的な肌色に包まれていて、傷らしきものは見当たらない。頬の血は俺の血がついただけで健人は無傷だ。ほっと安堵の息が漏れた。
「よかった。健人は怪我してないんだな?」
頷いた健人の左目から大粒の涙が落ちる。泣くな泣くな俺は大丈夫だから平気だから。子供をあやすように声をかけてみれば右目からも涙が落ちる。そっと抱きしめれば健人も控え目ながら俺の背中に手を回してくれた。
「……俺、自分がなんで怪我してんのか昨日のこととか全然覚えてねえんだけど、何があったんだ?」
「…………」
「健人?」
「……き、きのう、は」
「うん」
「…………」
「…………とりあえず飯でも食うか!」
永遠に沈黙が続きそうな気がしたので仕切り直すことにした。状況が変われば気分も変わるかもしれないし、飯食ってコーヒーでも飲めばいくらか落ち着くだろう。少なくともこの薄暗い寝室でめそめそ泣いてるよりずっと良いはずだ。俺は抱きしめていた手を離すと痛む身体を無視して元気に立ち上がった。勿論、健人の手も引いて立ち上がらせた。
朝飯の準備をするのに健人と二人でキッチンに立つ。なんだかキッチンの雰囲気がいつもと違うような気がする。調味料のボトルの置き場所が変わった気がする。布巾を掛けているフックが変わった気がする。住み始めて一週間にしてはコンロ周りが汚れている気がする。些細な違和感が色んな所に散らばっていて首を傾げながらコーヒーメーカーの電源を入れる。いつも使ってるマグカップを取り出そうと棚を開ければ、また違和感。見覚えのない皿がある気がする。食器の量が増えている気がする。不思議に思っていれば「作るのめんどくさいから、いつものでいい?」と健人が訊いてきた。泣き疲れた顔をしてる健人の手には食パンの袋とヨーグルトのパック。俺が頷けば追加で苺ジャムとスプーンと皿を持って健人はリビングに向かった。俺は二人分のコーヒーを入れて健人を追いかけた。
リビングも違和感だらけだった。ソファの上にクッションがあったりテレビの横に小さなサボテンが飾ってあったり、身に覚えのない物が増えている気がした。自分の家なのに初めての場所に来たような奇妙な感覚がする。だけど健人は何も言わず当たり前のようにソファに座ったので俺も当たり前のように座ってみた。いつもより沈む気がする。まだ使い始めて一週間のソファなのに日に焼けて色落ちしてるような気がする。全て俺の気のせいなのか、ただの勘違いなのか。健人は何も不思議に思わないのだろうか。窺うように健人を見たけど、健人は袋から取り出した食パンにジャムを塗っていた。いつもと変わらない光景。いや、少し違うかもしれない。袋の中で湿気り始めていたヘロヘロのパンにドロドロの苺ジャムを塗りたくる姿はいつもより荒々しい。皿やテーブルに跳ねるのも気にせず強く打ち付けるようにジャムを落として縦横無尽にパンに塗りつける。健人の目は据わっている。健人の目が据わるのは大抵怒っている時だ。ということは健人は怒ってる? でも突然どうして? 飯を用意するまでの間に健人の気に障るようなことが起きたか? 頭に大量のクエスチョンマークを浮かべながらコーヒーに口をつける。無意識の動作だったから怪我のことを考えていなかった。熱いマグカップが唇の端に当たった瞬間鋭い痛みが走り「いってぇ!」と叫んでしまった。パンを見つめていた健人が俺を見る。じっと見る。その瞳から怒りと悲しみを感じるのは気のせいだろうか。ただの勘違いだろうか。さっきから俺は全然分からない。今起きている全てのことが分からない。何も分からないくせに、いや分からないからこそ、得体の知れない不安の塊みたいなものが襲ってくる。頭がおかしくなりそうだ。助けてくれ、と縋るような目を健人に向ける。健人は感情の読み取れない真っ黒な瞳で俺を見ながら言った。
「やっぱり駄目だ」
酷く冷めた声だったから俺は驚いた。とりあえず何が駄目なのか訊こうとしたけど、俺が口を開くより先に健人は続けた。
「昨日は渡辺さんが来たんだ」
「渡辺さん……って、誰だ?」
「会社の先輩」
「会社のって、この前辞めたバイト先のことか?」
「ううん。今勤めてる会社」
意味が分からない。だって俺達は今どこにも勤めてないはずだ。この前大学を卒業して在学中に続けてたバイトも辞めた。社畜になる準備期間、または人生最後の自由時間だね、と笑って話してたのはつい先日のこと。それなのに健人は何を言っているのか。俺は困惑の目を向けたけど健人は俺の困惑に気付いても顔色一つ変えず、俺が知りたいことの説明もしてくれなかった。
「なかなか踏ん切りがつかない僕に渡辺さんが怒って……いや、違うな。いつまで経っても踏み切れない僕を心配して、渡辺さんは家まで来てくれたんだ」
「…………」
「こんな物があるから駄目なんだって、情が湧くんだって、写真とか片っ端から捨ててくれて……。でも、それを見てたら悲しくなってきちゃって。渡辺さんは僕のためにやってくれてるのに、僕だってそうした方がいいと思ってるのに、なんだか凄く悲しくて泣けてきて。そんな時にリュウ君が起きてきちゃって。眠剤も毎日使ってると効果が薄くなるのかな。とにかく起きてきたリュウ君と渡辺さんは言い合いになって。最後には殴り合いにもなって。このままじゃリュウ君が死んじゃうって。今まで散々渡辺さんに助けてもらったくせに、事情を知ってても見放さず僕と付き合ってくれてたのに、渡辺さんだけは僕のことを分かってくれてたのに、結局僕はリュウ君の味方をして、リュウ君のこと殴ってる渡辺さんを止めて」
「ごめん、健人。話が全然読めねえんだけど」
健人は何を話しているのか。夢でも見てるのか。自分と俺と渡辺さんという架空の人物が登場する妄想でも語ってるのか。それとも俺が夢を見てるのか。だからこの部屋も違和感だらけなのか。身に覚えのない怪我をしてるのか。
「でもやっぱり、止めなきゃよかったと思う」
「?」
「毎朝、こんなリュウ君を見てると頭がおかしくなる」
「俺?」
「何かおかしい何か違うって不思議な顔してるリュウ君に毎回説明するの。何十回も何百回も同じことを僕は言うの。バカみたいに何度も言うの。疲れる。そう、僕は疲れてるんだ。毎日すっごく疲れてる。何をやっても何を言ってもどうせ明日には振り出しに戻るのに、僕の努力は全部無駄になるのに。何でこんなに頑張んなきゃいけないんだろう。どうして僕だけこんな思いをしなきゃいけないんだろう。理不尽だよね。僕すごく可哀想だよね。でも僕を可哀想って思ってくれる人は全然いないの。可哀想なのは毎日振り出しに戻るリュウ君で、リュウ君の世話をしてる僕は大変なだけで可哀想じゃないんだって。ふざけんなよって感じだよね」
吐き捨てるように言うとパンにかぶりつく。つけすぎた苺ジャムがテーブルの上に落ちる。パンからはみ出たジャムが指先を赤く汚す。唇の横がジャムで赤く濡れる。自棄になったようにパンを食べ進める健人を前に俺は一ミリも動けない。マグカップの持ち手部分に指を差し入れたまま健人を見つめることしかできない。そして一分もかからずにパンを食べ終えた健人はジャムで汚れた手でスプーンを掴むと、ヨーグルトのパックに勢いよく突き刺した。
「あーあ、僕のバカ! 朝になったら後悔するのは目に見えてたのに、どうして昨日渡辺さんを止めたんだろう! 渡辺さんなら殺せたのに! 僕の代わりに殺してくれるチャンスだったのに!」
「健人……?」
「ああそうだリュウ君は何も分からないよね。何も覚えてないリュウ君に何を言っても理解できないよね。仕方ないから最後に教えてあげるね。最後だからね。もう二度と教えないからね。もう絶対説明なんてしてやらないからね」
ぐちゃぐちゃとヨーグルトを掻き混ぜる音が響く。パックからヨーグルトが零れても気にしない。視線は手元に向いてるのでヨーグルトがテーブルに飛び散っていることには気付いてるはずなのに、健人は乱暴に掻き混ぜる手を止めない。
「リュウ君は事故に遭って頭が壊れたんだよ。事故の日から何も覚えられなくなったんだよ。明日には今僕が説明したことも忘れるんだよ。リュウ君は永遠にあの事故の日を生き続けるんだよ。最悪だね。可哀想だね。本当に可哀想可哀想! なにが奇跡の生還だよ! 親も友達もみんな『生きてるだけで十分』とか言ってたけどさ、あいつらは何も分かってない! こんなことになるなら死んだ方がよかったじゃん! 死んだ方が幸せだったじゃん!」
掻き混ぜたヨーグルトを食べる気はないのか、スプーンを突き刺したままパックを叩きつけるようにテーブルに置いた。もう嫌だ。小さく呟いた健人はジャムやヨーグルトが飛び散ったテーブルに容赦なく伏せる。
健人は俺に何を説明してくれたのか、理解するのに時間がかかった。だってあまりにも現実離れした話だった。事故に遭ったという事実も信じられないというのに、その事故の日から何も覚えられなくなった? 確かそんな映画あったよな。寝たら全部忘れてしまう彼女に毎日告白する話。あれは実話を元にした映画だっけ? それともフィクション? いや、映画が実話だろうと作り話だろうとどうでもいい。ここは映画じゃなくて現実の世界だ。フィクションなんてものは存在しない。健人の話したことは作り話じゃない。現に俺は健人が言った昨日の出来事を覚えてないし、誰かに殴られたような怪我もしてる。作り話みたいだけど本当の話なんだ。それで、なんだっけ? 健人はこんな俺のことをどう思っているんだって?
「俺は、死んだ方がよかったのか?」
「…………」
「その方が幸せだった?」
健人は顔を上げない。人差し指で腕を突いてみたけど動かない。だけど返事はしてくれた。
「……僕はその方が幸せだったよ。毎日リュウ君に嘘ついて生きるくらいなら、死んでくれた方がよかった」
「嘘?」
「……リュウ君のこと好きじゃないのに好きって言ったり、笑いたくもないのに笑ったり、僕はもうずっと前からリュウ君に嘘をついてる」
苛立ちと悲しみに暮れた声だった。健人の声や態度から、健人がどれだけ苦しんでいるのか、嘘をつくのがどれだけ辛いのか、伝わってきた。伝わってきたけど、俺はそれを信じたくなかった。
「健人は俺のこと、好きじゃねえの?」
「好きじゃない」
はっきり言われた。躊躇いも無かった。驚いた。昨日まであんなに上手くいってたのに。念願の同棲生活に二人して浮かれてたのに。俺達は世界一幸せなカップルと断言できるくらい相思相愛だったのに。死ぬまで一緒にいて一生お互いを愛してると思ってたのに。健人は俺を好きじゃない。好きじゃないって、なんで、どうして。いや、理由は説明してくれた。健人は疲れたんだ。毎日可哀想な俺の世話をして疲れたんだ。毎朝昨日の努力が無駄になったことを思い知らされて疲れたんだ。努力しても忘れられるという理不尽な状況に疲れたんだ。俺だって健人の立場だったら疲れる。心が折れる。好きじゃなくなる……かもしれない。俺には想像することしかできないし、健人が実際どれだけ苦労してるのか分からないから曖昧にしか言えないけど。でも健人は嫌いになったんだ。沢山努力をした結果、俺を殺したいほど嫌いになったんだ。
「分かった」
「……何が分かったの」
「俺は死んだ方がいいってことが」
顔を上げた健人の表情は酷いものだった。でも健人に酷い表情をさせているのは紛れもなく俺だった。健人に嘘をつかせるくらいなら、俺の存在が健人を苦しめるなら、俺は死んだ方がいいのだろう。
「ちょっと俺、死んでくる」
立ち上がる。驚いたように目を見開いた健人に俺は優しく微笑む。健人を苦しめる奴は俺が消してやる! 俺が一生お前を守るから大丈夫だ! そんな気持ちを込めた微笑みだったけど残念ながら健人には伝わらなかったらしい。健人は安心とは程遠い驚愕と困惑に満ちた顔をしていた。まあ俺は嫌われてるし、今の健人に俺の気持ちを汲み取ってもらうなんて無理な話なんだろうけど。
さて、どうやって死のうか。首吊りが楽な気がするけど、残念ながら首を吊れる場所と首を括る紐が無い。風呂場で溺死するのは時間がかかる上に難しそう。窓から飛び降りるのは誰かを巻き込む可能性があるし、そもそも下は花壇になってるし、三階じゃ捻挫程度で終わりそうだし……そしたら、じゃあ、あれだな。材料一つで簡単にできるやつ。あれでいこう。
「リュウ君……?」
酷い顔をした健人の視線を感じつつキッチンに向かう。シンク下の扉を開ければ包丁が三つ収納されていた。昨日までは一本しかなかったのに増えている。いつかの俺か健人が買ったのだろう。全てを取り出して刃先を見る。なるべく切れ味が良さそうな物がいい。汚れや錆が少ない比較的新しそうな包丁を選び、残りの二本は元の場所に仕舞う。そして右手でしっかり包丁を握ると左手首に当てた。
「よし!」
気合いを入れるように一声。俺は右手に力を込め、一気に包丁を引いた。
「リュウ君っ……!」
きっかり三秒後。悲鳴のような声と共に健人がキッチンに駆け込んできた。俺は自分の左手首を見つめていた。ぱっくり割れた肉から滝のように血が溢れてくる。失敗か成功か、止まることを知らない血を眺めながら見極める。包丁を持つ右手が震える。ちゃんと覚悟を決めて切ったのに、予期せぬ事故に見舞われた時みたいに動悸が激しくなる。深呼吸を試みれば失敗した。はっ、と短い息しか吐き出せなかった。キッチンの床が血で染まっていく。紫がかった赤色。血って案外汚い色してるんだな。そう言って健人に笑いかけようと思ったけど力が抜けて座り込んでしまった。全身の血が左手に向かって流れていく感覚がする。出血してるからそう思うだけかもしれない。本当に俺の血液全てが左手に向かっていたらこんな悠長に物を考えられないだろう。この程度じゃ駄目だ。全然足りない。俺に死んでほしいと願ってる健人のためにも、もう少し切る必要がある。俺は血まみれの左腕に再び包丁を当てた。
「やめて!」
包丁が弾き飛ばされる。健人が俺の左腕を掴んで高く持ち上げる。何をしてるのかって、多分きっと傷口を心臓より高く上げて止血を試みてる。肩に向かって流れていく血。健人の手にも血は伝う。床も服も至る所が血に濡れていく。「汚え血だなあ」今度こそ笑って言えたけど健人は笑わなかった。俺の手を持ち上げたままキッチンに掛けられているタオルを傷口に当てる。一瞬でタオルは赤く染まり、ずっしりと重くなる。どうしよう。どうしよう。どうしよう。譫言のように繰り返している健人を眺める。眺めてる場合じゃないのは分かってるけど、あまりにも健人が必死だから俺は眺めることしかできなくなるのだ。
「どうしよう、血が止まらない、どうしよう、リュウ君っ」
「…………」
「救急車呼ばなきゃ!」
「呼ばなくていい」
今にも泣き出しそうな健人が俺を見る。必死すぎだと俺は笑い、健人の手を振り払った。タオルごと床に左手が落ちる。自分の手じゃないみたいだ。痛みも痺れも血の温かさも感じてるのに、今俺の左手は俺の支配下に存在しない。不思議な感覚だ。
「助かったら、意味ねえよ」
「リュウ君」
「このまま放置しなきゃ失血死できねえって」
「リュウ君……!」
なんだかとても身体が怠い。冷蔵庫に背中を預けて息を吐く。健人が顔面蒼白で俺を見ている。だから必死すぎだって。笑いたいけど力が入らなくなってきた。
「頼むからこのまま死なせてくれ」
「駄目だよ、そんなの駄目、リュウ君、お願いだからそんなこと言わないで、早く救急車を」
「これ以上健人を不幸にしたくないんだよ!」
声を張り上げる。たったそれだけなのに酷く体力を消耗した。酸欠になったみたいに頭がくらくらする。
「好きなんだ。健人のことが。スゲー好きで、本当に好きで、好きだから、もう健人に迷惑かけたくない、健人を苦しめたくない」
「っ」
「それに、健人に嫌われて、別れて、この先一緒にいられなくなるなら、俺は今ここで死にたい」
「…………」
「その方が俺は幸せだ」
渾身の笑顔。健人の瞳が見る見るうちに濡れていく。健人は優しい。俺が死んだ方が幸せになれるのに、俺が死にそうになると悲しんでしまう。それどころか死なないように、助けようと必死になってしまう。優しくて情に厚い。可愛いくて可哀想な奴だ。
「どうしてリュウ君は、なんで、そんなに……」
「約束、しただろ」
「約束?」
「お前を苦しめる奴らは俺が消してやるって、お前のことを一生守るって」
「……バカじゃないの」
ついに堪えきれなくなったのか、健人の瞳から涙が溢れる。大粒の涙がボロボロと頬を伝い床へ落ちていく。俺は笑いかける。ちょっと下手くそかもしれないけど笑ってみせる。とうとう健人は声を上げて泣き出す。いつもの、苦しそうに呻きながら泣く面白い泣き方だ。
「バカでいいよ。お前のこと守れるなら、それでいいよ」
「よくないよ……」
「いいんだよ」
健人がぶんぶんと首を振る。涙を散らしながら泣く。そんなに首を振ったら小さな頭が空へ飛んでいくんじゃないかってってバカな想像をして笑う。
「でも、そうだな、どうしても健人が納得できないなら、最後にひとつだけ、俺のわがまま聞いて」
「わがまま?」
「俺が死ぬまで、一緒にいてくれよ」
「…………」
「ほら」
右手を差し出す。なかなか掴んでくれないから、俺から健人の手を掴む。右手はまだ俺の言うことを聞いてくれるみたいだ。でも血が足りなくなっているのか、手も、腕も、全身が冷たい気がする。健人の体温を感じる余裕も無いくらい、冷たい。俺の手を握り返してくれた健人は俺の手をどう感じているんだろう。いや、健人も体温を感じる余裕なんて無いか。泣きすぎてヤベェもんな。
「健人。ごめんな。あと少しの辛抱だから」
「……辛抱ってなにが?」
「俺が死んだらお前は解放される」
「…………」
「今までずっと辛かったよな。いっぱい無理させてごめんな。でも、俺のために頑張ってくれてありがとう」
笑え。笑え。笑え。たとえ健人が涙で何も見えなくても、俺は健人に向かって笑わなきゃいけない。笑わなきゃ駄目になってしまう。全部が無駄になってしまう。
「お前は正直者だから、嘘つくの大変だっただろ。もう二度と嘘つかなくていいからな。もう嘘つかなくて大丈夫になるからな」
「リュウ君」
「ん」
「……好きじゃないなんて嘘だよ。死んだ方がいいなんて嘘。死んだ方が幸せになれるなんて、全部嘘だよ!」
優しい健人。あれは本心だっただろうに。でももしかしたら今この瞬間、あれは嘘になったのかもしれない。健人はまた俺を好きになってくれたのかもしれない。そうだったら嬉しい。
「そもそもリュウ君がこんなことになったのは僕の所為なのに、あの時リュウ君は僕を庇って車に撥ねられたのに、それなのに死んだ方がいいなんて思うわけないじゃん。いつも僕を守ってくれるリュウ君を僕が嫌いになるはずないじゃん!」
「健人……」
「ごめん、ごめんね、リュウ君ごめん、酷いこと沢山してごめんねっ」
子供のように大きな声を上げて泣く。いつもの呻きながら泣くのとは違う。泣きじゃくる、って表現がピッタリの泣き方。多分過去最高に泣いている。中学の時、女子の前で無理矢理オナニーさせられてた時でさえここまで泣いてなかった。大学の時、怖そうな先輩達に輪姦されかけた時でさえこれほど声を上げなかった。この世の終わりみたいに泣いてる。かわいい、って不謹慎だけど思う。しょうがない。それくらい俺は健人のことが好きなのだ。
「リュウ君死なないで。死んじゃやだよ」
ボロボロと涙を流す健人に微笑む。そしてああもう限界って感じでゆっくり目を閉じる。健人の泣き声が大きくなる。健人が俺の身体を揺さぶる。死なないで死なないで死なないで。同じことしか言えない壊れたオモチャみたいに繰り返す。声だけでも健人の本気が、健人の思いが、気持ちが、伝わってくる。健人は俺が死なないことを懸命に願っている。望んでいる。生きてと懇願している。俺はそんな健人に心から思う。
これくらいじゃ死なねえっつーの!
手首を切って死ぬのは意外と難しい、ということを俺は知っている。健人は小学生の頃から己の身体を傷つけることでイジメに対する苦しさやストレスを発散していた。俺は健人の親友として恋人として、健人がやっているリストカットやアームカットについて調べた。それは適切な手当ての方法を学ぶためだったけど、その時に手首を切って死ぬにはどの部分を切ればいいのか、どれくらい深く切ればいいのか、どれほどの血を流せばいいのか、そしてリストカットでの致死率の低さや実際にリストカットで死ぬのがどれだけ大変なのかを知ったのだ。だからちょっと力を込めて包丁で切ったくらいじゃ死ねないのは分かってる。思ったより血が出てる気がするけど、所詮素人の目で見た感想だ。医者が見たら「深く切りましたねー」って鼻で笑われるレベルだろう。完全に動脈は外してるし、もはや静脈すら切れていない。この程度の痛みと出血量じゃ絶対死なない。だから全部嘘なんだ。俺は死ぬつもりなんて微塵も無いんだ。死なないと分かっていながら、もう死んでしまうみたいに振る舞っているんだ。
「っ、もしもし、すいません、助けてください! リュウ君、あ、こっ恋人が、腕を切って、血が止まらなくて! お願いします、早く来てください!」
救急車を呼ぶ声が聞こえる。呼ばなくていいって言ったのに。医者が見たら大袈裟だって言われるだけなのに。健人の必死な声を聞いてると嬉しくて笑いそうになる。だけど俺は絶対に笑ったりしない。息を引き取る寸前のような演技を続ける。健人は本気で俺が死ぬと信じている。俺に嘘をつかれるなんて思ってないから、俺の演技に健人は簡単に騙される。俺を信じ切っている健人はとても可愛い。
「リュウ君、すぐ救急車来るから。もう大丈夫だからね」
「……ん」
「絶対にリュウ君を死なせたりしないから。今度は僕がリュウ君を守るから。だから、お願い、死なないで。これからも僕と生きてっ」
今にも踊り出しそうになるくらい嬉しい言葉の数々。今なら幸せで空を飛べる。大量の地雷が埋められた地をスキップして歩ける。それくらい喜んでいても、俺は熊に遭遇した時のように死んだフリをする。なんでこんなことをしてるのかって? こんなことをすれば健人は一生俺と一緒にいようと思うからだ。
死ねばいいと思ってるくせにずっと殺せずにいた健人が、マジで俺が死にかけている姿を見て慌てふためくのは容易に想像できた。渡辺という男に殴られているのを止めた時もそうだったと思うけど、俺の死を身近に感じて初めて健人は俺のいない未来を本気で想像して怖くなるんだ。その恐怖心に付け込むように優しくすればイチコロ。頭が壊れているらしい俺の面倒を見るのは辛いけど、情に厚い健人はそう簡単に俺を捨てられない。どれだけ辛くても俺の気持ちを、愛を、真摯に向けられたら絶対絆される。今までの苦労を忘れて俺の優しさに簡単に流される。健人は今までの自分の行動や考えを悔い改めて、俺と一緒にいる未来を選択する。だから死んだフリなんてバカみたいなことをやっているのだ。健人を手に入れるために、わざわざ腕を切って死ぬ演技をしてるのだ。
昔からそうだった。俺は健人を手に入れるためには何だってやってきた。健人が寂しいと言えばバイト中だろうが深夜だろうが構わず会いに行ったし、健人が欲しいと言った物は盗んででも手に入れてやったし、健人のしょうもない悩みも真剣に聞いてやったし、全然楽しくないゲームも健人が楽しいなら付き合ったし、健人の学力に合わせて高校も大学も選んだし、なるべく健人のそばにいて健人の望むモノを与え健人が俺無しじゃ生きられなくなるように、健人にとって俺が絶対的存在になるように努めてきた。中でも一番頑張ったのは健人の大好きなヒーローになることだった。健人を守り健人のヒーローになるというシチュエーションを作るために、クラスの奴らに健人をいじめるよう頼んだ。時には金を払い、飯を奢り、合コンをセッティングしたり、一日彼氏なんてものをやったり、様々な報酬を餌に徹底的に健人をいじめるよう色んな奴らに頼んできた。いじめられてボロボロになっている所で俺が登場したり、数々のいじめを苦に腕を切り刻む健人を優しく抱きしめたり、お前には俺がいる俺がお前を苦しめる奴らを消してやる俺がお前を守るから大丈夫と宣言すれば、俺は健人のヒーローになれる。いじめ以外でも俺は率先して危険な場所に飛び込んだ。健人が転びそうになった時は健人の手を引いてわざと俺が転んでみせて、健人の前に飛び出してきた自転車には健人の身代わりとばかりに自らぶつかりに行き、正直この距離なら余裕で避けられる車に敢えて飛び込み健人の目の前で撥ねられた。全ては健人のヒーローになるため。守ってくれた助けてくれたと感謝の気持ちを持たせるため。守ってもらった助けられたという負い目を感じさせるため。そうやって健人の中で俺の存在を大きくするため。こうした努力の積み重ねで着実に俺は健人を自分のモノにしてきた。だから死んだフリくらい造作のないことだ。守るフリして車に撥ねられるより、ずっと簡単なことだ。
「リュウ君、リュウ君……?」
意識を飛ばしたフリをしていれば段々眠くなってくる。死なないとはいえ結構な出血量で貧血気味だし、冷蔵庫に凭れてる背中はあったかいし、このまま良い感じに眠れそうだ。フリじゃなくてマジで意識を飛ばせるならそれこそ好都合だ。健人に名前を呼ばれると反射的に答えそうになるし、今の慌てた健人の顔を見たくてたまらない気持ちを抑えるのは大変だし、意識を飛ばせるならそっちの方が断然楽。
「どうしたの? ねえ、なんか言ってよ……」
俺は静かに息を吐きながら身体の力を抜く。完全に頭を寝るモードに切り替える。寝ればいいだけなんて、今回はとても簡単だ。健人を守るという名目で嘘をついたり演技をしたり騙したりするより、ずっと楽だ。救急車が来てあれこれ大変になるだろうけど、大変な思いをすればするほど俺が目覚めた時の感動も大きくなるだろうから、後のことは健人に任せて眠ろう。
「リュウ君!」
ああ、起きるのが楽しみだなあ。次に目が覚めた時、健人は俺が目覚めたことに喜び安堵し涙を流しながら微笑むだろう。自分の所為で自殺未遂をしたと責任を感じてしばらくは出掛ける時も風呂に入る時も寝る時も四六時中そばにいるだろう。もう二度と俺がバカなことをしないようにと、今まで以上に俺を気に掛け、俺と一緒にいようとするだろう。また俺の面倒を見るのが辛くなることもあるかもしれないけど、その度に俺に守られたことを思い出し、俺の愛に絆されて、今と同じようなことを繰り返すだろう。そうやって健人は一生俺の隣にいるのだ。
「リュウ君やだ、死なないで! 起きてよ、リュウ君!」
大丈夫大丈夫あとで起きるから俺は死なないから目覚めた直後にちゃんと健人の可愛い泣き顔と笑い顔を見てやるから抱きしめてやるから安心させてやるからお前を救ってやるから今は存分に悲しんで不幸のどん底に落ちて地獄を味わって死にたくなるほど絶望して絶望すればするほど救い上げられた時に感動するから改めて俺の存在の大きさに気付いて俺が生きてるだけで幸せと思えるようになるから健人には幸せな未来しか待ってないから今はとにかく可哀想なくらい泣いて死にそうなくらい喚いて世界の終わりみたいに叫んで俺への愛を叫んで、叫んで。
「リュウ君、好きだよ、大好きだよっ、僕はリュウ君がいなきゃ生きていけないよ、お願いだから僕と一緒に生きてよ!」
可愛い可愛い健人! 好きだ! 大好きだ! 愛してる! 頼まれなくても俺は一生お前と一緒に生きてやるよ。
*
目が覚めた時、最初に見えるのが健人の寝顔だと最高。健人の後頭部でも最高。だから今日も、最高。俺は目の前にある小さな頭を十秒ほど眺めて幸せに浸ると、そのまま後ろから抱きしめた。ん、と小さな声が聞こえて健人が起きた気配がするけど、気にせず健人の髪に顔を埋める。ぐりぐりと身体を押しつける。健人はおひさまの匂いがする。あたたかくて、癒やされる。
「……リュウ君?」
「おはよ、健人」
「……ん。おはよ」
寝起き特有の力が抜けている声を聞くとテンションが上がる。勿論寝起きじゃなくてもテンションは上がるけど、寝起きの声は健人の目覚めの瞬間に立ち会える人しか聞けないから特別感があって一層テンションが上がるのだ。今日も相変わらず健人は可愛い。好き。可愛い。可愛い。好き。好き。大好き。朝から愛が溢れてやまない。
「……ねえ、リュウ君」
「うん?」
「……朝から元気だねぇ」
「こんな至近距離に好きな奴がいたら元気になるだろ」
朝の生理現象なんて野暮なことは言わない。健人がいるから当然の反応。俺の身体は今日も元気に健人を求めてる。
「リュウ君は正直だなあ」
「俺は嘘をつかない男なんだよ」
そう言って俺は、くるりと寝返りを打った健人に向かって微笑んだ。